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奇跡の生還(七ヶ浜で本当にあった話です)
改盛丸漂流記 

 改盛丸は、七ヶ浜村吉田浜字浜屋敷三十八番地 渡辺豊之助の所有船で、四板船と呼ばれる2トン内外の小型漁船で金華山周辺を漁場として、季節漁業やマグロ流し網漁を営んでいた。明治四十二年五月十九日花淵浜 遠藤勘之助を船頭に、漁夫船主女婿 作右門、漁夫七郷村深沼 佐藤権太郎、漁夫吉田浜 小玉長兵衛、炊夫吉田浜 小野孫三郎の五人が乗り込み、金華山沖で鮪流し網漁に従事し、出漁五日目帰航予定の前日二十二日になって、夜来の暴風雨に遭い、船体は激浪に翻弄され、危うく転覆を免れたが、船は水浸しとなり、船員は必至の働きで水を汲みだした。暴風雨はおさまっても、船は次第に沖合いに押し流され、西を指して漕いでも走っても、舷を打つ蒼浪は激流の早さで、陸地に近づくことが出来ず、船はかえって東北に流れる暖流の真っ只中にあることがわかっては、帰航は全く絶望となってしまった。飯を炊き、魚を煮るマッチ付木は濡れて全く役にたたず、生米、生魚をかじり、漂流十一日目の朝、船頭が「昨夜 鼻節神社の神様が枕神に立って、明日は東に向けて走れとつげられて眼が覚めた」と一同に話した。しかし東に向かって走ることは、日本本土からますます遠ざかるので、船頭はじめ船員一同疑惑と不安につつまれたが、神を信ずることの深い当時であったので、絶体絶命の今日は、一縷(いちる)の望を神にかけ、運を天に任せて東に向かって走るほかなかった。その日の昼頃になって、遥か南西の晴れた空に、淡く煙のようなものの拡がるのを見、怪しんでじっとみつめていると、その煙が次第に濃くなり近くなるのを確かめ、やがて小さく黒い船体を発見したときは、船員は神のお告げに今更ながら感謝し、小躍りして喜んだ。しかし心のどこかに一抹の不安があった。それは数日前に汽船の遠く走るのを見かけたが、汽船からは見つけられないで、素通りされたからである。今度こそはと、船員たちは衣類を脱いで招手にしたり、出来るだけの手段を講じた。汽船のほうでも見つけたものか、急に進路を変えて近寄って来たときは、はじめて助かったという嬉しさで一杯であった。

 汽船はいよいよ接近し速度をゆるめ、やがて停船して、一番若くて弱っている孫三郎から順次本船に移した。船員の僅かばかりの着物や持ち物まで積み込み、長い年月乗りなれた船は、船員の心残りにならないようにと油かけて焼かれた。船員がそれを心惜しげに見守るうちに、本船は再び走り出した。

本船の船員は異人(外国人)と数人の支那人コックだけで、話は少しも通じないのに弱りはてたが、地図を出されて、自分たちは金華山の近くであることを知らせただけで、あとは一切手真似で用を弁ずるよりほか術はなかった。コックが支那人であったので、南京米の粥や飯を食べることが出来たが、どこの船でどこへ行くのかもわからなかった。走ること十二日目の夜、湾口が狭くて湾内の広い丘陵になっている大きな港に入った。話に聞いている旅順港ではないかなど語り合った。朝になると驚いた。小さい船まで機械で、湾内を縦横に走っている。陸上では、四角の箱形のものが素晴らしい早さで往復している。その日が六月九日で、出漁してから二十二日目であった。午後になると日本人が慰問に来てくれた。この時は地獄で仏のたとえのようにありがたかった。今まで謎につつまれていた一切がわかり、ここはアメリカのサンフランシスコで、助けた船はアメリカンスタンダード石油会社の汽船ウエンネバダ号であった。

 船上から見るアメリカの発展と進歩、サンフランシスコの繁華は、その地を踏まなくとも、ただ目を見張るばかりであった。日本人の漂流を伝え聞いた在留邦人は、毎日入り替わり立ち替わり慰問に来られ、中には食料品から衣類金品を贈られ、同じ日本人であるという友情と同胞愛に、ただただ感激するばかりであった。

中にも仙台出身の画家小圃さん、七北田出身の遠藤貫一、庄司秀一郎、高平麟太郎さん等の若い人方も見え、なにくれとなくお世話になった。サンフランシスコに滞在すること四日、日本からの寄港船がないので、日本領事館に引き渡されるというその日、日本郵船会社の地洋丸が入港したので、船から船に引き渡され、上陸は許されなかった。地洋丸は数日後、サンフランシスコを出港し、途中、ホノルル港に寄港し、土着人の投げ銭を拾うのや、潜りなどを見物し、一路よく浜に寄港し外務省に引き継がれ、東京市内を見物し、七月四日出漁してから四十七日ぶりに、懐かしい我が家に奇跡的に変えることが出来た。

 故郷では、出漁後寄港予定の前日に暴風雨があり、そのうえ二十三日すぎても帰らないのでようやく不安になり、もしや遭難したのではないかと心配にし、神仏に祈願し八卦をおき、占いなどしたが、いずれも悲観的なものばかりであった。中にただ一人鼻節神社の社司で奇行が多く、八卦もよく当たると言われた樋渡佐太夫翁(九十歳)のいうには「船員は死なない、まだどこかに生きている。そのうちに行った時と別な方から帰ってくる」その卦は「梅の花が咲いたが、暴風雨で花は散らされても、実になるのが残っているから、必ず実る時がある」というのであった。しかし八卦は当たることもあり、当たらないこともあるとうそぶいていた。後になって、掌を指すように的中したのに、聞く人驚かないものはいなかった。

卦はこう出ても、日が一日一日とたっていくが、その後なんの音沙汰もないので、船主の家を除いた船員の家では、遭難死亡したものとして仏にまつり、香を炊き供物を供えたりした。

六月十日出漁してから二十七日目に、外務省から船主に、船員救助の入電があったときは、船員家族はいうまでもなく、部落民の喜びは何にもたとえようもなく、夢でなかれと驚喜するばかりであった。それからさらに二十五日待って」七月四日、漁師の作業衣を脱ぎ捨てて、当時としては漁師に珍しい背広を着、ネクタイを結び、靴をはき防止をかぶり、土産物を手に手に颯爽として帰って来た姿に、二度びっくりしたのであった。

あの日から、もうすぐ4年をむかえようとしています。いまだに行方不明の方々が大勢いらっしゃいます。子どもを、父を、母を探し続けています。せめて大事な人の証になるものだけでもと探し続けています。そのお手伝いを継続しているボランティア。ただただ頭がさがります。
ご家族のもとに大事な人の証が帰ることを祈っております。
改盛丸の奇跡のように
by umihito