宮澤賢治と菖蒲田浜 | 七ヶ浜復興応援サポータープロジェクト

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クリスマスに「銀河鉄道の夜」の作者、宮澤賢治のお話♪




賢治が晩年になって書きつけた「文語詩篇」ノート」には、次のような事が記されています。

    

        五月 仙台修学旅行
        伯母ヲ訪フ。松原、濤ノ音、曇リ日
                          磯ノ香
        伯母ト磯ヲ歩ム。夕刻、風、落チタル海藻
                          岩ハ洪積

これは賢治の盛岡中学4年時(1912年)修学旅行の際、七ヶ浜町・菖蒲田浜にある「大東館」で療養していた伯母・平賀ヤギを見舞った時の話です。 賢治の父政次郎の姉ヤギは、一度結婚したものの1893年に離婚して、実家に戻っていました。賢治が生まれた1896年から、1902年に再婚するまでの 間、彼の幼少期に同居することとなり、賢治を非常に可愛がったと言われています。浄土真宗を篤く信仰し、寝床の中で賢治に親鸞の「正信偈」や蓮如の「白骨の御文章」を子守歌のように繰り返し聞かせ、賢治が3歳にしてこれらを暗誦したというエピソードを育みました。また、賢治が粘土で作った仏像を、後年も大事に仏壇に安置して礼拝していたともいうことです(佐藤隆房『宮沢賢治』)。


賢治は、この修学旅行での内容を父に送っていました。


「謹啓 昨夜夜十一時帰盛仕り候 今日は一日睡り只今この手紙を認め居るにて候
小遣は二円にて甚だ余り申し候 石の巻を出発仕りしは午前十時頃にて候へき船は海に出で巨濤は幾度か甲板を洗ひ申し候 白く塗られし小き船はその度ごとに傾きて約三十分の後にはあちこちに嘔げる音聞こえ来り小生の胃も又健全ならず且つ初めての海にて候へしかばその一人に入り申し候 約一時間半にて松島に着浅黄色の曇れる日の海をはしけにて渡り瑞巌寺を見物致し小蒸気に乗りて塩釜に到り申し候 松島は小生の脳中に何等の印象をも与へ申さずわづかに残れるは雄島の赤き橋と瑞巌寺の古美術位の物にて候 塩釜にて無理に先生の許可を得その夜八時半迄に仙台に行く事を約して只一人黄き道を急ぎ申し候 曇れる空、夕暮、確かなる宛も無き一漁村に至る道、小生は淋しさに堪へ兼ね申し候 無意識に称名の起り申し候 肥れる漁夫鋭き目せる車夫等に出合ふ度に小生の顔を見つゝ冷笑する如き感を与へられ不快なる心もて 塩釜より約一時間両び海を見黒き屋根の漁夫町を望み申し候 波の音は高く候へき。「この町に宿屋何軒ありや。」と聞けば六軒ありと答へられ一軒一軒を尋ねても伯母上を見んと思ひまづ渚より岩にかけられし木の階を登り大東館と書かれたる玄関の閉まれる戸幾度か叩き申し候へど答無ければ宿は他の方かと思ひて家を東の方にまはればこゝには戸無くランプの灯赤きに人二人居るが硝子越しに見え申し候 宿主の居る方を聞かんと存じ中をのぞき候ところ思ひきや伯母さまにて候へき 今一人は下女にて候へき不思議さうなる顔して小生を見居りしが甚だ喜ばれし面もちにてしきりに迎へられ遂に その夜の九時の塩釜発の汽車にて仙台に行く事とし夕食をごちそうに相成りあちこちよりの手紙を見せられ申し候、伯母さまは幾度もおぢいさんや父上母上のお心に泣きたりと申され候、 海は次第に暗くなり潮の香は烈しく漁村の夕にたゞよひ濤の音風の音は一語一語の話の間にも入り来りて夜となり その夜は遂に泊められ申し候 伯母さまはずいぶんやせ申し候 血色はよろしきやうに見え候へども一日の食物は土鍋一つの粥のみと聞き申し甚だ驚き申し候 仙台の大内といふ人及静助さんはずいぶん親切にする由にて候 菖蒲田には客たゞ一人、伯母さまあるのみにて今はずいぶん淋しく私にても只一人かの地にあらばずいぶん心細く思ふべく候 すべてに不自由なしとは云はれ候へどもあまり永くかの地に止りたしと思はれぬ様は言葉のはしはしに見え候へき 九時半頃小生は先に睡り申し候 この夜咳の音に二度ばかり目覚め申し候 翌朝朝食を少しおそく食ひ八時二十分の汽車に間に合ふ為大急ぎにて来路を歩みとても間に合はざるやうなれば半分路より俥に乗り申し候 九時仙台着助役に小生の宿を聞き巡査に幾度か尋ねて堺屋といふ宿屋に着し十二時一行と合し申し候
先づは以上伯母さまのことを御報知迄  敬具 」


岩手県の花巻と盛岡という内陸しか知らなかった賢治は、石巻の日和山から、生まれて 初めて「海」を見ました。 次の日は、淋しさと不安に怯えつつも、賢治は7kmほど離れた菖蒲田の集落に、一人叔母を見舞い何とかたどり着きました。伯母の身の上を案じる賢治の優しさと、心細さが作品にも出てきそうな描写で書かれています。


大東館(だいとうかん)


明治21年、菖蒲田海水浴場が開設されたことに併せて、大東館が建てられました。日本で3番目(1番目は明治14年愛知県立病院長だった後藤新平が同県千鳥ヶ浜、2番目は明治18年に神奈川県大磯の照ヶ崎海岸)。
当時の海水浴は、「潮湯治」(しおとうじ)とも呼ばれ、療養を目的に全国へ広まりました。18世紀の中頃、イギリスの医師が海岸に患者を集め、海水に浸 らせたのがその始まりと言われています。大東館はいわば湯治をするための療養(保養)施設で、財界人や軍人などの有名人の来館が後を絶たなかったといわれ ています。
上棟式には若き後藤新平(後の満鉄初代総裁・東京市長)も出席したといいます。その後も、文人では島崎藤村や宮沢賢治なども訪問しています。しかし、場所は岬の突端にあり風や波によって浸食が激しく、建替の話もあったそうですが、結局は撤去されてしまいました。(七ヶ浜町ガイドより) 

 その後「幽霊屋敷」のようになって残っていた大東館の建物は、1991-1992年ごろに、取り壊されたということです。

解体直前の大東館

取り壊しの際、廃材を焼却していたところ、「大東館」の看板の裏には
「後藤新平」の落款が見えたが、すでにその大半が燃えた後で、
「あーっっっっ」っと言う関係者の声とともに灰となってしまった。。。


個人的には、再建して文化人の集うにぎわって欲しいと思います!