七夕さま 💛 まんが日本昔ばなし 097
あらすじ
昔、ある所に焙烙(ほうろく)売りの若者がいた。
ある日のこと、若者がいつものように焙烙を売り歩いていると、湖で娘たちが水浴びをしているのに出くわした。湖畔の松の枝には、目も覚めるような美しい着物が掛けてある。若者は、どうしてもこの着物が欲しくなり、一人分の着物を取って行ってしまった。
夕方になり、若者がまた湖に戻って来ると、そこには一人の娘が裸で泣いている。若者は、この見たこともないような美しい娘に一目惚れしてしまった。そこで、着物がなくて帰れないならオラの家で一緒に暮らしてくれと言い、この娘を嫁にしてしまう。若者と娘はそれから仲睦まじく暮らし、二人の間には子供までできた。
しかしそんなある日、嫁は天井の梁に吊るしてある包みに気づき、これを開けてしまう。その中には、嫁が湖で取られた着物が隠してあったのだ。嫁はこの着物を着ると、戻って来るよう懇願する若者を後にして、子供を抱えて天に昇って行く。嫁は、自分に会いたかったら草鞋(わらじ)を千足編んで、竹の根元に埋めるよう若者に言い残した。
若者は、それから嫁に会いたい一心で草鞋を編み始めた。ところが、千足に一足少ない九百九十九足の草鞋を竹の根元に埋めたため、地面から伸びてきた竹は今一つの所で天には届かなかった。そこで若者は天にいる嫁を呼び、嫁の手を借りてどうにか天に昇った。
ところが天にいる嫁の両親は、自分たちの許可なく娘を嫁にした若者を快く思っていなかったのだ。それで父親は事あるごとに若者に難題を吹っかけてきた。ざるで水を汲むという難問は、嫁の知恵でざるに油紙を敷いてクリアしたが、今度は畑の瓜を褒美にやるという。但し、瓜は必ず縦に切れと言うのだ。若者が言われた通り、畑の瓜を縦に切ると、何と瓜からは水があふれ出し、その水は天の川となって若者を押し流してしまった。
流される若者に向かって、嫁は七日に会いましょうと言うが、若者がこれを七月七日と聞き間違え、二人は毎年七月七日に、天の川をはさんで一日しか会えなくなってしまった。そして、これが七夕の始まりだということだ。
まんが日本昔ばなし 0106【座敷わらし】
東北に伝わる座敷わらしのエピソード
昔から東北地方には、座敷わらしという子どもの姿をした神様のお話が伝わっている。
座敷わらしは、古い大きな家の奥座敷に住んでおり、トタトタと駆け回る音をさせたり、ザワザワと箒で掃くような音をさせたりすると言う。また、お客さんが家に泊まった時など、枕返しという悪戯をしたりすることもある。
座敷わらしの容貌も様々で、ある人の話では、かわいらしいおかっぱ頭の女の子であったと言い、またある人は裸の男の子だったとも言い、赤いちゃんちゃんこを着た12~3の男の子だという人もいる。
座敷わらしについては、こんな話もある。あるお屋敷にお嫁さんが来たので、近所の子ども達がお祝いに呼ばれて、奧の座敷で遊んでいた。ところが遊んでいるうちに、どういう事か子どもの数が1人増えているのだ。これは、座敷わらしが子供たちの中に混じっているのだと言う。
また、座敷わらしは家の守り神だとも言われ、座敷わらしがその家にいる間はその家は繁盛しているが、座敷わらしがいなくなると、たちまち落ちぶれてしまうと言われている。
ある日の夕暮れのこと。一人の若者が川べりで、あまり見かけない2人の女の子を見かけた。若者は不思議に思い、どこから来たのかと2人に尋ねた。すると2人はこう言う。「オラ達は、今まで山口の孫左衛門(まござえもん)の所におったけど、今から気仙(けせん)の稲子沢(いなごさわ)へ行きます。もう、あの家も終わりだもの。」
そして2人の娘の言った通り、何代も続いた長者の孫右衛門の家はあっというまに傾いてしまった。そしてその頃、気仙の稲子沢では与治右衛門(よじえもん)という男が、夢のお告げで33の花を付けた百合の根元に財宝を見つけ、たちまち大長者になった。ところが、しばらくしてこの家からも座敷わらしが出ていくのを見たという者がいた。そしてそれから間もなくして、与治右衛門の家もみるみる傾いていったと言うことだ。
またこんな話もある。ある宿屋の奥座敷に一人の恰幅(かっぷく)のよい男が泊まっていた。夜中、男が寝ていると男の子が出てきて腕相撲を挑む。ところが大の男がいくら力を込めても、男の子はビクともしない。逆にこの小さな男の子にねじ伏せられてしまった。
この噂を聞きつけて、物好きな者や力自慢の男たちが宿屋に押し掛けて来た。ところが男たちが待てど暮らせど、男の子はいっこうに現れない。男たちはあきらめてぐっすりと寝込んでしまう。さて、朝になって男たちが起きて目を覚ますと、いつの間にか男たちの掛け布団は下に、敷き布団は上に、見事などんでん返しを食っていたそうな。
座敷わらしは、物陰から人間の暮らしを眺めていては、時にはいたずらに出てきたり、仲間に加わって遊んだりする。しかし、嫌になればいつでもぷいといなくなってしまう。人々が出会った座敷わらしの姿は村の子供達とちっとも変わらず、だからこそいつまでもみんなに愛される神様として残っているのだろうか。