関口宏のもう一度!近現代史▽昭和18年(1943)大東亜宣言・東京ローズ | 七梟のブログ

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「関口宏のもう一度!近現代史」7/17(土)ひる0時は「大東亜宣言を発表」

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日本の戦況が悪化の一途を辿る中で開かれた大東亜会議。
そこに集まった日本とアジア諸国にはどんな思惑が?
一方、連合国側もアメリカ・イギリスが中心になりカイロ会談、テヘラン会談を開催。
大戦の行方を左右した話し合いの内容とは?
今回は、各地で玉砕戦が行われ、大都市では疎開の検討も始まり日本が徐々に追い込まれていく
昭和18年10月から12月です。

 

 

大東亜会議

MARUMEGANENOOYAJI

 

世界各国が、民族毎に自分たちの土地を持ち、お互いにたすけあって、ともに国家として発展し、みんなで明るく楽しみをともにするためには、まず世界平和の確立がその根本です。
けれども米英は、自国の繁栄のためには、他国や他の民族を無理矢理押さえつけ、とくに東亜諸国に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、東亜諸国の人々を奴隷するという野望をむきだしにし、ついには東亜諸国の安定そのものを覆(くつがえ)そうとしています。
つまり、東亜諸国の戦争の原因は、そこにその本質があるのです。
そこで東亜の各国は、手を取り合って大東亜戦争を戦い抜き、東亜諸国を米英の押さえつけから解放し、その自存自衞をまっとうするために、次の綱領にもとづいて、大東亜を建設して世界の平和の確立に寄与します。

1 東亜諸国は、協同して東亜の安定を確保し、同義に基づく共存共栄の秩序を建設します。
2 東亜諸国は、相互に自主独立を尊重し、互いに助け合い、東亜諸国の親睦を確立します。
3 東亜諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、東亜諸国それぞれの文化を高めあいます。
4 東亜諸国は、互いに緊密に連携することで、それぞれの国家の経済の発展を遂げるとともに、東亜諸国の繁栄を推進します。
5 東亜諸国は、世界各国との交流を深め、人種差別を撤廃し、互いによく文化を交流し、すすんで資源を解放して、世界の発展に貢献していきます。       (ウィキペディアより)

 

 

日本は当時、「大東亜共栄圏」というアジアの植民地支配からの解放を掲げていた。大東亜会議は、翌年以降も計画されたが、米英の圧倒的な物量展開を前に日本の戦況は悪化し、事実上、1回で終わった。戦後になると、会議は日本の傀儡(かいらい)政権の集まりであり、日本の南方侵略を正当化する手段でしかなかったなどと否定的な評価をされた。

海軍に所属していた中曽根康弘元首相(100)でさえ「大東亜共栄圏を旗印に、植民地政策に苦しむアジア諸国救済を謳(うた)い進出していったが、土足で人の家に上がるような面もあったといえる」(産経新聞『転換への挑戦』平成27年8月)と批判的だ。

 

 

 

東京ローズ(とうきょうローズ、英語: Tokyo Rose)は、日本軍が第二次世界大戦中におこなった連合国側向けプロパガンダ放送の女性アナウンサーに、アメリカ軍将兵がつけた愛称。

 

"Tokyo Rose", Tokyo, Japan, 09/20/1945

US National Archives

 

アイバ・戸栗・ダキノ(Iva Toguri D'Aquino、日系アメリカ人、日本名・旧姓:戸栗 郁子(とぐり いくこ)、1916年7月4日 - 2006年9月26日)「東京ローズ」の1人として、もっとも著名な人物である。

 

プロパガンダ放送
「ゼロ・アワー」
日本政府は太平洋戦争中、「ラジオ・トウキョウ放送(現在のNHKワールド・ラジオ日本)」で、イギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍をはじめとする連合国軍向けプロパガンダ放送を行っていた。捕虜から家族宛の手紙の紹介等をしていた。

1942年(昭和17年)2月に軍当局の発案で、連合国軍捕虜のラジオ放送の専門家を使う事にし、元オーストラリアABC放送のアナウンサーで、オーストラリア兵捕虜のチャールズ・カズンズ少佐、元アメリカのフリーランスアナウンサーで、アメリカ兵捕虜ウォーレス・インス大尉、レイズ中尉らを参加させた。チャールズ・カズンズ少佐は当初拒んだが、最終的に承諾した。

そして始まったのが「ゼロ・アワー」で、音楽と語りを中心に、アメリカ人捕虜が連合国軍兵士に向けて呼びかけるというスタイルを基本とした。1943年(昭和18年)3月から、1945年(昭和20年)8月14日まで放送され、太平洋前線のアメリカ軍兵士やイギリス軍兵士らに評判となった。

英語を話す女性アナウンサーは複数存在したが(同局の女性アナウンサーは4人から20人ほどいたという証言もある)、いずれも本名が放送されることはなく、愛称もつけられていなかった。アナウンサーについては「孤児(みなしご)のアン」という名称が使用されていたが、放送を聴いていたアメリカ軍兵士たちは声の主に「東京ローズ」の愛称を付けた。

「東京ローズ」はアメリカ本国でも注目され、ニューヨーク・タイムズが1944年3月20日付の記事で取り上げたほか、1946年には映画『Tokyo Rose(英語版)』が製作・公開されるほどであった。ダグラス・マッカーサーも回想録で「東京ローズ」に言及している。

アナウンサー
「東京ローズ」に該当するのがどのアナウンサーであるかは、アメリカ軍兵士からは明確に判らないままであったため、戦争開始前に太平洋上で行方不明になり、その後「日本軍に捕らわれた」と噂された女性飛行家のアメリア・イアハートが「『東京ローズ』の1人として活動していた」とさえ噂されたことがあった。

終戦後、来日したアメリカ人記者達は東京ローズを、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の制止を振り切っても捜し回った[1]。「ラジオ・トウキョウ放送」側は、アメリカの従軍記者の取材に対し、東京ローズと名乗った女性は一人もいないと回答した。

ところが、アメリカの従軍記者からの取材に対し、アイバ・戸栗・ダキノ(アイバ・戸栗・郁子)は、「東京ローズ」の一人であると唯一認めたため、アメリカに帰国後国家反逆罪に問われた。しかし、裁判で兵士が証言した「東京ローズ」の声質や放送内容が、戸栗のそれとは一致しないのが実情であった。

後に公開されたFBIのファイルに、「東京ローズ」の「候補」として複数の女性アナウンサーの顔写真があった。

兵士が証言した「東京ローズ」は、放送期間と放送された内容や声質、およびその声紋などから、日本初の女性英語アナウンサーであるジェーン・須山こと須山芳江(1920年 - 1949年、バンクーバー育ち。「南京の鶯」と呼ばれた)である可能性が高い。須山はアイバ・戸栗・ダキノの裁判の最中、1949年(昭和24年)7月18日横浜で映画を観た帰路、アメリカ軍兵士の飲酒運転により事故死したが、日本の警察にも在日米軍にも記録が無い。