少し前、営業所の状況、それを取り巻く営業部、会社の環境を見てドイツもコイツもダメだというダメダメ感を感じた。

そこから発生したのは、誰もダメなら誰がやるんだ、俺がやるしかねェ。

そういう思いだった。

この時自分のスイッチが入った。


最近、親と妻や子供、義理の親との関係についても自分が機能するべきところを逃げてる事に気付いた。

この仕切りも誰がやるかと言ったら俺しかいない。


俺の人生において大抵の事は俺がやるしかない。

その大前提から逃げてる場合がある。

そしてあんまりその事に気付いてなかったりする。


今後、所属長として今迄とは段違いに俺がやるしかない状況が増える。

露呈、露出する。

俺がやるしかない。

という気持ちもより強く持って邁進する事が必要になる。


とにかく、「俺がやるしかない」という思いになった瞬間にスイッチが入るのは事実だ。

自分の中に一本筋が通る。

自分の芯が立つ。

実は10月に転勤で北関東の所長として行く。

栄転である。

で、単身赴任を考えていたが今日少し考えが変わった。

子供の幼少時に父親が平日だけとはいえ不在。

これがどう影響するか。

もし、悪いところが出て子供の性格や人格形成に影響したら。

人格を作る時期。

これは結構取り返しのつかない事の様な気がしてきた。

安易に単身で、週末は帰ってくるし。

と考えない方が良さそう。

もっと詰めたところで答えを出していかないと後悔するような気がする。

正直、単身になれば軽自動車を中古で買って帰省に使おうとか、少し新しい生活に楽しみも実はあった。

けれどそんな浮つい自身のみの楽しみはクソ食らえで、本当に大事な事を考えたら他所において置くべき事かも。

今、危ないところだったかもしれない。

それに、家族を連れて行ったらもう後戻りできない。

戻るところも無い。

そういった状況の方がハラが決まって気合が入るかも。

仕事もプライベートも。

そしてそれは家族も同じかもしれない。

今日、営業会議をやった。

所長から皆の意見を聞きたいという事でその場を持ったが、それは営業部への反論など。

でも俺たちが詰めたいのは、むしろ営業所のベースの見直し。

そのズレが既にある。

所長この人はホントにずれてる。

読む力が無い。


けど逆にこれは俺の力を発揮できるチャンス。

先ずは皆に呼び掛けたい。

本気でやってみないかと。

ヤツ(所長)やそれより上とかはとりあえず関係ない。

自分が燃えられる様に、面白く思える様にやってみたい。


その先駆けは先ずはK籐である。

あいつこそがこのプロジェクトのカギを握る。

あいつが起動すれば回りも連動する。

俺はその切っ掛けにでもなればいい。


思えば、はじめから力の無い俺に覚悟が足りなかった。

絶対にやるという覚悟。

リスクを引き受ける覚悟。

能力の無い俺に必要だったのはその部分であり、それが無い俺は能力もないのだから何の価値もなくなってしまう。


今やらないのは、「評価は望まない」と言いながらそれに拘っている事になる。

自分が燃える、面白く成る事を目的としてやるのなら、それは関係なくなる。


アイツをこちら側に引き込むには、俺にも覚悟が必要である。

今までそれが無かった。

その辺にきっとアイツも落胆してたのか。


俺と死んでくれと頼もう。

そして面白くしようと。

外野は関係ない。

俺たちと、そのフォロワーの為に。

さっきTvでエチカで副交感神経=笑い=最強説をやっていた。

副交感神経はおれも着眼していたが、端的にそれを表すと=笑いだろう。


この土日は富浦キャンプだった。

去年はこれでかなり癒された。

初対面の人達との接点もあったし、自然からのパワー供給もあった。

今年もそんな期待はあったけど、去年ほどじゃなかった。


結局、ウチ家族だけキャンプになったので、仕方ない面あるが。

自然からのパワー供給はやっぱしあった。

で、釣りとか慣れない事やる中で、自分のプランニングと覚悟と合理性が大切という様な学びもあった。


副交感神経=笑い。

という事では、経験や、見た事、思った事をオカシク思えるか、考えられるかが全て。

事に自分の事になると焦りや、やるせなさで、自分を許せなかったり、自分を卑下したりする。

そういう自分も含めて可笑しかったり、逆に好きと考えられる事が=最強説に繋がる。

これはある意味究極の思考法。


けど、この遊び心が、余裕を生みプラスに持ってく。

第三者的にも笑いを生む、またそんな雰囲気を持った人に集まる。

だって自分が笑いを得られるから。

そんだけ笑いは重要。

究極、生き死にに関わる。

人はそれをきっと本能で解る。

だから笑いを求めるのか。

昨日。会議の後の懇親会で社長と飲む機会があった。

今回の日本代表に例えれば、守備に重点を置いた形で対処してしまった。

だが、それも一つの作戦と言えば間違いではなかった。

トーナメントのように負けたらそこで終わりに似ている。


一つ悔やまれるのは、会議の席で社長の無塗装品を以前営業の要望で生産したが売れ残り、今また生産の要望が上がっているが信用できないという件の直後、取締役が俺に発言を振ってきた際に、当たり障りの無い辺としかできなかった事。

あの場合は、「確かにその通り」と言いながらも「でも、以前と今では状況は変わっている」旨を述べるべきだった。

それが出来なかった俺。

普段の物事を考える際の真剣さが不足していたという事だ。

そしてそれがなまじ分かるものだから、その後はじけきれない。

全く分からないよりはましだと思うが。

確かこのブログで、Wカップのピッチでヒデが起きてこなかった事を書いた。

それがもう4年前である。

そして今もうヒデは現役でなく、代表にもいないが、今回の日本はその時以上の結果と過程を歩んだという事になるのだろう。

それにしても早い。


この4年後の躍進を誰が想っただろう。

たぶん、違いは実力というところでなく、その発揮の仕方という部分が大きい。


それを含めての実力という事ではあるが。


自分はこの4年で何が前進できただろう。

確かに前進はしている。

時間は経過しているのだから、それは当たり前。

対費用効果で費用を時間として考えて、それはどの位進んだのか。

まだ、というか足りない。


目標を明確に。

ぶらせるな。

ぶれるな。

ぼやけるな。

確か俺はヒデがピッチから起きてこないのを想い、ブログに書いた。

それが4年前である。

wカップが4年毎である限りそれは紛れも無い事実なのだが、あれは4年も前の出来事だったのか、実感が薄い。

でも現実である。


今、岡田ジャパンが新しい闘いに挑んでいる。

4年前に比べて格段に進歩を感じる。

それを思うとヒデには悲運を覚えるが、それも時代のうねりなのだろう。


若干の物足りなさを感じながらも、4年前のそれとは格段の手ごたえを感じている。

日本国民、サポーター、その1段階下に位置すると思う自分にもそれは感じる。

ヒデの居る時代にそれが起きたなら、と想うが、それも過程の一つになっていくのだろう。


あのころと今の日本はどう進歩できたのだろう?

何が変わったのだろう?

必ずしも進歩、前進と言えない現実もあるだろう。

それが事実だとして、その通りに捕らえている日本人がどの位いるのだろう。?

次の自分の行動の指針として組み入れている人がどれだけいるのだろう。?


現況からして、それは微々たるモノとしてしか感じられない。


で、その前段階と言えるそう考えている人はどの位いるのだろうか?


そんな事を考えてしまう。

最近毎日走っている。

鍛える為だ。

心身を。


限界値というのはあるが、人が考えている自分の限界値は実は本当の限界より数段下に設定されている。

鍛えるというのは、この自分で考えてしまっている限界値を本当の限界値に近づける事。

そうする事で限界値により近い経験を実際にしていく事になる。

そして、それが本当の限界値さえも上げていく事になる。

鍛えて可能な範囲が飛躍的に上がった様に見えるのは、自分の思っている限界値が数段上がった状態。

そこに本当の限界値が上がったのは無いか微々たるもの。


毎日走る事で走力、体力が上がる。

体はシェイプされる。

徐々にだが。

確実に体感できている。


この体験が体力面だけでなく、仕事においても、いや生きる事全般で可能分野の拡張を感じさせてくれる。

拡張が可能である事を。


人はプレッシャーというモノを感じる。

その感じ方は人様々だ。

とかくプレッシャーが臨海点に達すると、一杯一杯になり何にも出来なくなる。

ならば臨界点を上げておくしかない。

その行為が自分を鍛える事である。


以前に億劫に感じた事。

実行するのに抵抗を感じた事が最近そう感じなくなってきた。

スッとその行動に入る。

多少の障害は障害と思う意識さえなくなってきた。


このまま継続して鍛えていけばそれは更に促進されるだろう。



妹の言った言葉で「運動は絶対ではないが勉強は絶対に裏切る事は無い」という様なものある。

妹は非常に優秀で中学の時だが、運動も勉強も学年一番だった。

なのでその裏付けなのかと非常に印象深く覚えている。


高校3年の時。

英語の先生で東大出身の年配の先生が、「運動ではなく、自分を鍛えるという事においては英語の方が、より強く効果的に鍛えられる」という様な事を言って、自分でも恐らくはそうなんだろうなと思っていた。

ある意味そんな側面もあるんだろうが、今俺は違うと思う。

たぶん鍛える事の導入部や、その体感を得る事においては運動程適しているものは無いと思う。


生きる事はプレッシャーと戦う事に他ならない。

より強いプレッシャーと戦う様にする事は自分を鍛える事である。

ポジションとは恐らく決めるものではなく気付いたら居た場所。


今日、今月で辞めた同僚の飲み会に参加してきた。


そこは権益が極めて薄い世界。


全くゼロではないが。


だが、自分がベストポジションと思っているいる人には客観はもはや通用しない。


そういうスタンスでこそ全力というものは出せるのだろう。


得てしてそのスタンスで力を発揮出来た人が評価もされる。


それが全うな世界と言える。


まだ、今の世の中、全うな世界は現実に残されている。


その恵まれた世界で俺は何が出来るのだろう。


何をすべきなのだろう。


人生は一度だけ。

辻氏の近々のブログを2編


気に入らないもの

良薬は口に苦し、と同じく、気に入らないものでなければ学べ

ない。心地良さだけでは自分濃度が高まり、内なる壁を厚くし

てしまうだけである。違和感こそが人間の幅を広げてくれる。


真の問題を見出す

経営で大事なことは、真の問題を見出すことである。問題に対する

解決策は大人なら誰でも思いつく。大半の企業は間違った問題認識

に基づいて安易な解決策に振り回され、バタバタしている。


重要なのは解決策の巧拙ではなく、真の問題を素早く見出すこと。



この二つ、正にストライクで来た。


「この場」がよく違和感で一杯になる事はある。

それは学べる場である。


して、真の問題は常に付いて回っている筈なのに、見落としている。

だがそれは実は本人の意志なのだ。

肝心なのは逃げ無い事。