ジョン・スチュアート・ミル (1806-1873、イギリス)は、

功利主義の祖ベンサム(1748-1832)に続く、
初期の代表的な功利主義論者として知られています。

ミルと動物問題について、少し思いついたことが有ったので書いてみます。

1 ミル

<質を問題にした>


ミルは『功利主義論』のなかで、
ベンサムが快楽・苦痛の「量」幸福の「総量」を問題にしたことに重ねて、

幸福と満足の違い、高級な快楽と低級な快楽など、
快苦の「質」を問題にしています。

<高級な快楽とは>


「2つの快楽を比べた場合に、両方を経験している人が、全部またはほぼ全部、道徳的義務感とは関係なく決然と」選ぶ快楽が、高級で好ましいのだとミルは言っています。

(ここが結局どういうことか難しいのですが、「ミル研究」ではないので割愛します。快楽AとBを知る人がほぼAを選ぶのであればAが高級であり、能力的にAを知れない人はそもそも判断できない、というようなことです)

ミルは具体的に好ましい快楽(質が良い)を列挙などはしませんが、
「知的興味」、つまり学問や読書、芸術の鑑賞などをイメージしているように思います。
(高級な快楽の感受能力のある者、ない者、などとも言っている)

人間の中でも、豊かな天分を持つ者の方が「不完全さを感じやすい」とも、述べています。

もちろんその上で「量」を考える事の重要性も押さえています。
(質VS量ではない。質の高い快楽であれば、どれだけ少なくても良い等ではない)





<功利主義論者には違いない>

こう見ると、快苦の量を考えるベンサムが雑で、質を加えるミルが「人間的」であるかのように思えますが、
それは「高校の教科書」的な解釈です。

幸福を考える上であくまで快苦の「量」に着目したベンサムの言説こそが、
以後、現代のシンガーにまで至る、功利主義の明快さを支えていると考えます。

ミルの言うように仮に質の高い快楽と低い快楽があるとしても、結局はそれらも「計算できる」対象になり、
結局は、「結果として」「皆の快が多く苦が少ないのが良い」、というわけです。



「高級な快楽を知るものでも、低級な快楽を求める場合もある」
「それによって、高級な快楽が低級な快楽にまさることは否定されない」
とミルはいっています。

たとえば、絵画鑑賞が好きな人でも・・・。
長距離を歩いてきて、あなたの近くで、ひどく喉が渇き疲れている様子なら・・・?
絵より「水を飲む」ことを欲するかも知れません。
そういう場合に「絵」を与えても苦痛の軽減や快楽の増加にはもちろん繋がりません。

無論、こういう場合には(大した労力がかからないなら)
水を与えるのが正しいというのが、ベンサムにもミルにも共通する、つまり功利主義の考え方です。

逆に、その人の家がすぐ近くに有って直ぐ水が飲める、
かつ、あなたが水を持ってくるのが大変困難であれば、
無理には水をあげないほうが、全体(あなたとその人)としては幸福になります。
何かの行為が無条件に必ず良いとか悪いとかではなくて、状況によって判断されるという考えですね。



ドイツのカントは、ベンサムと全く対立する考えを持っていますが、
ミルに関してはあくまで功利主義論者であり、基本、ベンサムの擁護者です。
当時、さっそく噴出したベンサム功利主義への攻撃に反論する意味で、
「こういう(快楽の高級/低級)要素を入れても功利主義がなお成り立つ」と示す意図も感じられます。

2 ミルと動物


<動物についての例のセリフ>

で、ここを書きたかったのですけど、ミルは

「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうが良く、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスである方が良い」

と言っています。上の、快楽の質の話を言っているわけです。

続けて「そして、その馬鹿なり豚なりが、これと違う意見を持っているとしても、それは彼らがこの問題について、自分たちの側しか知らないからに過ぎない」とも言っています。
・・・言葉は激しいですが(汗 高級な快楽は、感受できる人とできない人がいる、みたいなことですね。

動物好きの人は、豚のくだりで腹が立ってしまうところでしょう。
高校教科書・参考書などでも、ここだけが使われがちに思いました。

また、「(動物の評価はさておくとしても)そうだ、高級な知的快楽を感受できる、知識や教養ある者になるのがイイのだ」と捉えてしまっても、また功利主義の本質からはズレてしまうのです。

「優れた者になること・目指すこと」は悪くはないと思いますが、「結果として皆の快が増えて苦が減る」の理屈の理解には全然つながりません。

(高等学校まででは、このニュアンスで説明されてしまうことも残念ながら多いような。「名言」は往々にして言った人の本質とはズレてしまい独り歩きする印象ですね。)

<ひどい扱いだけれど、注目のポイント>

「馬鹿なり豚なりが」などと、動物や、「感受能力の低い人(仮)」にひどい言いようのミルですが、

見方を変えると、低級なものであっても確かに快楽や苦痛を感じるのが「馬鹿」や「豚」ということです。
(私が打ち込んでいますが、あくまでもミルの言葉ですので…!)

この時代、いや現代でも、そもそも動物が倫理的な配慮の対象に全くならない、というようなことを言う人は少なくないのです。現代の倫理学者では少ないと思いますがいろいろな分野では…。

つまりベンサム同様に、ミルもまた、
一応動物を「快苦を感じる存在」として捉えていたのではないか?と考えられます。
それこそ、皮肉なことに例の上の「名文句」からそれが分かる。…これ、かなり重要なポイントです。

<質の高低って、考えようでは??>

ここは、私のおもしろ・身勝手解釈ですけど、

「快楽の質」が色々有るのだ、ということをミルは言っているわけですね。

彼はどちらかといったら上下というか、能力の「差」を言っていますけれど、
ここを「違い」にしてみるとどうでしょうか。

様々な動物は、多様な感覚を持っています。
呼吸したり、フィジカルな痛みを感じたりとの部分では「人間と似た感覚」かもしれませんが、
(これはこれで重要です)

大空を飛ぶとか、急降下するとか、海中を自在に泳ぎまわるとか、
群れで走るとか、孤独に樹の上で暮らすとか、夜間に動きまわるとか・・・

様々の動物の感じる快楽苦痛は、人間より高いとか低いとかではなく、
「質が違う」といえるんじゃないでしょうか。
そうして、その色々の質の快苦に、人間は気を配るべきだ、と言えるのではないでしょうか。

あるいは、「高低」で考えたとしても、
ネコのようにしなやかにあるいたり、鳥のように空から地上を眺めたり、
こういうことから得る感覚に関しては、彼らは人間より「高級」とも、みなせるでしょう。
だってそんな感覚、私には分からないのですから(感受能力がない)!

無論、ミルの解釈としてこれは行き過ぎです。
デカルト等と並んで「動物の敵」のように言われることもある彼の言説から、
連想を挟んで、こういう考えも導けるんじゃないかな、てコトでした。

<最後に>

やっぱり長くなってしまいました・・・。

最後に、ミルに限らず、
(少なくとも表現上)動物を露骨に下に見る論者はこの時期(18-19世紀)少なくありません。

ただし、ミルもそうなのですが「絶対的な君主による圧政」「特権階級による支配」
などから人々を守り自由を築くには??、と時代背景との関係は外せません。

時に動物なども引き合いに出して、
・ひとりひとりの人間が、感覚を持っていること
・計算できるような(つまり誰でも等しく)快楽や苦痛を感じる存在であること
・一部の人間の支配などで、そうした快苦が蔑ろにされてはならないこと
なども示したかったのでは、ないでしょうか。

ミルには、人間の中での能力主義を感じますけれど、
それにしたって、「市井にも、平民とされる中にも、優れた人はいるのだ(一部の特権階級などだけが優れているのではない)」という解釈が可能です。

現代の動物倫理では、哺乳類、ないし脊椎動物、
あるいは「有感動物とされる範囲」などを大事にしようと問題提起し主張するためもあってか、
微生物、原生動物、あるいは昆虫などは、すこし軽く扱われているのが見られます。
そこには、ミルの議論における「動物」の扱いと似た構造を感じます。
直ちに悪いということではなく、ゆっくりとだけれど時代が進んでいるのかも、と実感します。

参考:世界の名著 38 『ベンサム J・S・ミル』
一ノ瀬正樹『功利主義と分析哲学』

※ミルは、岩波文庫で『自由論』などが読めます。彼は政治や経済の話でも活躍した人です。ただし功利主義に関しては「世界の名著」収録の『功利主義論』に詳しく書かれています。読み物としてもミルは読みやすいです。