最近、ネット言論でやや目立つのが「どっちもどっち論」の危うさです。

これは私も、現実生活を含めて昔からよく思います。

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試みにアメーバ公式からいま出ている話題を拾えば、
「ドタキャンを許せるか」とか、「ふられた恋人にこだわる心理」なんてネタが出てきます。

こういうとき、「ドタキャンを許せない方にも問題がある」とか、
「恋人をふるふり方にも問題があるんじゃないか」みたいなので終わらそうとするのが、
「どっちもどっち論」です。

…こういったライトな話題、話題のための話題のようなものなら、

「どっちもどっち」で結論を濁すのもありでしょう。



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しかし、重大な問題でもそういう傾向が見られます。

ブラックバイトは問題だ→でもブラックバイトを問題視する人もヒステリック→どっちもどっちだ
戦争反対してる人がいる→でも戦争反対のアピールが過激に思う→どっちもどっちだ
医療の世界に闇がある→でも医療を利用しないなんて極論だ→どっちもどっちだ

こういうのですね。
昔からよくあるのだと「いじめられた側にも問題がある」なんてのも。

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どうも、「どっちもどっち」を良く出す人は、「極端」に見えることが嫌いなんじゃないか、とは思います。
でも、では自分自身が何を言いたいのかというと、良く分からない場合が多いです。

また、「世の中に絶対的な正しいことはない」と言いたいのかもしれませんが、ちょっと待ってください。
「正しいことは、ない」てのは、凄い強い言葉ですし、
やや詭弁になりますが、
「正しいことはない」のが答えである、と言い切っているのであり結構極論なのです。

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日本の教育(小中高、少なくとも公立について)で問題に思うのは、

1 精神論 (やればできる、等。できないこともある)
2 全体主義 (皆と同じにする)

ですが、もう一つ、
3 「色々な考え方があって良い」の強調(しすぎ)
があると思うのです。経験上これを思います。

色々な考え方を「内心持つ」自由は重要ですが、
たとえば「人が傷つこうが、どんな表現をしてもいい」わけでは、ありません。

また、「一つの正しい方向」を徹底的に回避する傾向も、一部の人に思うのです。
ケガをするかしないかで言えば、ケガはしないのが良いのであり、
「皆がなるべくケガをしやすい校庭にしよう」なんていうのは、
コメディ的な表現としては許されても、実行は許容されないわけです。

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たとえばプロ野球でA 8-1 Bとかの結果であった場合、
「Bチームも一点とったところは評価できる」とか、
「Bチームのピッチャーの一人は、少ない起用機会に応えて好投した」とか、
「一面的な見方をしない」のは大事です。重要ですね。

しかしそういう見方が行き過ぎて、
”どっちも同じ”でありAチームの勝利自体が無きことのように処理されたら、それはやっぱり変ですね。

スポーツ談義では、ここでAチームの勝利が無のような見方はまず出ないわけですけど、
他の話題になると、そんな飛躍がまま見られると感じます。

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「どっちもどっち」的考えは、冒頭に挙げたようなライトな話題とか、
あるいは、明らかに議論に値しない意見ばかり現れた際に持ち出すものであって、

重要な問題について、人々がいつもそれで逃げるのは、大変に危険であると私は思います。

その連鎖が、ものすごく危ないのだと感じます。