皆さん、おはようございます。5時前に起きた

5月2日の曇りの朝です。現在7時18分

室温20. 2度、湿度79%で、ジメジメして

暖かいです。

昨日5月1日鹿児島県姶良市は、午前中は曇りか

ら小雨に変わり、午後は曇りで風強かったで

す。そんな日に、桜島と錦江湾、日豊本線を走

る列車、別府川と花の風景、古帖佐焼宇都窯

跡、島津義弘公とゆかりのある高麗稲荷神社、

姶良市温泉センター▪楠の湯などの写真を撮

し、それを投稿します。

では、きょうもお元気にお過ごしください。


①錦江駅近く陸橋から見た桜島
②加治木港で見た桜島③別府川④楠の湯


◇◆◇◆◇

8時50分頃に、自宅を出かけ

曇りで、少し強い風吹き抜け涼しい

行き交う車の多い姶良市加治木町の錦江駅近く

国道陸橋で、数分待ち、9時9分に

『桜島と加治木町岩原集落▪日豊本線沿いの田

園地帯を走った下りの特急きりしま』を

見られました。









そのあと、小雨降り、少し強い風吹き抜け涼し

い国道10号の行き交う車の多い、宇佐美ガソリ

ンスタンド前を、9時25分頃に

『国道10号沿いに咲く雨に濡れる咲き残るツツ

ジ』を、見られました。









さらに、国道沿いを進み、小雨降り、風吹かず

少し蒸し暑い国道10号から20メートルほど

離れた場所で、9時35分に

【『椋鳩十先生この地に住む』案内板】を

眺めました。 




そして、国道沿いを進み、曇りで、ジメジメし

て少し蒸し暑い中、行き交う車の多い国道10号

沿いの、加治木まんじゅうの美坂饅頭屋さん

前を9時46分頃に通りました。

加治木まんじゅう▪美坂饅頭屋






そのあと、曇りで、ジメジメして蒸し暑い

網掛川に架かる行き交う車のめちゃくちゃ多い

国道10号網掛橋近く網掛地蔵前で、9時50分に

『網掛地蔵と網掛川と網掛橋』を見られました









そして、加治木港に着き、漁協建物前や

漁船岸壁前、中央防波堤近くを通り

曇りで、さわやかな風吹き抜け涼しい

黒川河口に近い野鳥の鳴き声聞こえる防波堤で

10時20分に、『桜島と錦江湾と加治木港の

風景』を眺めました。











そして、曇りで、さわやかな風吹き抜け涼しい

ツバメの鳴き声聞こえる中央防波堤へ行き

10時25分に、『桜島と錦江湾と加治木港の

漁船』を見られました。









帰路、加治木港入り口通り、かもだ通りを進み

左に曲がり、網掛川沿いを上流方向に進み

曇りで、ジメジメするが、さわやかな

風吹き抜け涼しい網掛川に架かる田中橋で

11時40分に『網掛川の上流方向の風景』を

眺めました。



そのあと、竹下踏切の警笛がなり、

2分ほど待ち、11時21分に

『網掛鉄橋を渡った上りの列車』を

見られました。







そして、11時40分頃に帰宅しました。

◇◆◇◆◇

14時30分頃に出かけ、曇りで、さわやかな

風吹き抜け涼しい野鳥の鳴き声たくさん聞こえ

る鹿児島県姶良市を流れる別府川に架かる

岩淵橋より下流側の川岸に降り、14時57分頃に

『別府川と川沿いに咲くとっこう花』を

眺めました。









そのあと、川沿いの道を離れ、県道を渡り

曇りで、風吹かず蒸し暑い姶良市鍋倉地区の

県道空港道路近くの狭い市道沿いでの

『鍋倉の田の神様群』15時15分に眺めました










いったん県道沿いを進み、左に曲がり

曇りで、ジメジメして蒸し暑い中

姶良市立帖佐小学校の校庭と体育館の間の

通用門付近から、15時15分に

『姶良市立帖佐小学校校舎と校庭と体育館』を

眺めました。









そのあと、曇りで、ジメジメするがさわやかな

風吹き抜け涼しい、姶良市鍋倉地区の

野鳥の鳴き声たくさん聞こえる

花園寺跡公園を、15時50分頃に

訪ねました。

姶良市鍋倉▪花園寺跡公園










花園寺跡の歴史
花園寺跡は、もともと文禄4年(1595) にこの地に居館を築いた戦国武将・島津義弘が、朝晩に仏前勤行した看経所があった場所といわれ ています。居館の南西部に位置し、南辺には東隣の稲荷神社から続く当 時の石垣が残っています。「米良家文書」によると、島津家久(義弘の三男、初代薩摩藩主)の 五男・忠広は、寛永9年(1632) 13歳で修験者(山伏)となりました。
寛永12年(1635)には、参勤する家久に同行し京都醍醐寺三宝院(修 験道当山派本山)に出仕し、その後江戸滞在中に家久から着経所持仏堂 を芝藩邸に与えられました。しかし、まもなく起こった江戸の天火のた めに帰国することになり、同年9月加治木に帰着すると、あらためて家 久屋形内に着経所を建立してもらい、「目陽山花園寺宝寿院」(黃晉榮) の称号を与えられました。
寛永14年(1637) 島津義弘の長女千鶴 (御屋地様)の養子となってい た忠広が帖佐居館に入ると、花園寺もここに移されました。寛永16年 忠広は、兄である2代藩主・光久の命で還俗し、翌年鹿児島に移 居したため、花園寺は修験者の米良存良坊重真に与えられ、薩摩藩主家 の武運長久と息災延命等を忠広に代わって祈願・勤行することを命ぜら れました。この役は米良家に代々引き継がれ、廃仏毀釈が起こる明治2 そんぞく 年(1869)まで花園寺は存続しました。
近年の発掘調査では、2棟の掘立柱建物が確認されました。はっきりした時期は不明ですが、居館跡石垣に平行して建てられていることから、 居館または花園寺に関係する建物跡であると考えられます。また、石垣の北側には枯山水 様式の庭園跡が残っていました。後世 に庭石の多くが失われており全体像は分かりませんが、庭石の特徴や配 置から江戸時代前期に造られた可能性があります。
※看経所・・・経文を黙読する場所。
※修験者(山伏)・・・厳しい山岳修行により天地の諸神・諸霊を操作できる力を備えた超 能力者として信じられ、戦勝祈願などの占いや祈祷を行い重用された。 ※枯山水・・・水を用いずに石や砂などにより山水の風景を表現する庭園様式。


◇◆◇◆◇

花園寺跡公園を離れ、狭い市道を通り抜け

曇りで、ジメジメするが、さわやかな風

吹き抜け、野鳥の鳴き声聞こえる姶良市鍋倉の

宇都窯跡を16時頃に訪ねました。

古帖佐焼宇都窯跡











県指定史跡 古帖佐焼宇都窯跡 宇都窯跡は、島津義弘の御庭窯として古くから知られていました。大正 7年(1918)には、帖佐村有志によりすでに「古帖佐焼跡碑」(窯左手)が、義弘公三百年祭記念事業の一環として建立されています。 昭和9年(1934)には東洋陶磁研究所の小山富士夫·田沢金吾両氏によって発掘調査が行われました。この調査では、窯本体と小規模な物原がみつかり、窯道具・陶器片・陶土・瓦が出土しました。窯の構造は朝鮮系の 「半地下式単室傾斜窯」とされ、窯壁の焼け具合と遺物の少なさから窯の そうぎょう 操業が短期間であったと推定されました。(「薩摩焼の研究」)。 その後、宇都窯は昭和38年(1963)に姶良町史跡に指定されました。、 しょうさいはあく 平成12年(2000)、町教育委員会は改めて窯構造の詳細な把握を目的 に発掘調査を行いました。その結果、次の新事実が明らかになりました。 ①窯に改築の痕跡が認められ、2時期(Ⅰ期・Ⅱ期)に分けられること。 Ⅱ期の窯は国内に類例のない非常に特殊な構造であること。 Ⅰ期の窯の特徴的な遺構は、3本の時に区切られた4本の排煙溝です【図 ①E-F断面、写真2】。畦の幅は約15cm、溝の幅は約20cmで等間隔に 配置されていて、窯の正確な設計がうかがえます。 排煙溝の先には長さ約1m、幅約1.1~1.3mの平面台形の空間が掘られ、 けむりだ 煙出しと考えられます【図1C-D断面】。この煙出しの壁面には、岩盤を削った工具の痕が明瞭に残っています。 Ⅰ期の窯の痕跡は排煙溝と煙出しにみられるだけで、その他の 部分はⅡ期の窯の築造によって削られて残っていません。さらにⅡ期には Ⅰ期の排煙溝と煙出しを瓦・土砂で埋め【写真3】、新たに粘土で床を貼り、 全長約6.7mの細長い窯に造り替えたと考えられます。 遺物はⅠ期の煙出しを埋めた瓦以外に、窯の周辺から陶器片や窯道具が しゅつど ちゃいれ 出土しました。陶器片は白い粘土を用いた抹茶碗や釉薬のかかった茶入の けいしゅ つきもの 破片、窯道具は傾斜した床面に焼物を置く台があります 【写真4】。県指定史跡 古帖佐焼宇都窯跡 宇都窯跡は、島津義弘の御庭窯として古くから知られていました。大正 7年(1918)には、帖佐村有志によりすでに「古帖佐焼跡碑」(窯左手)が、義弘公三百年祭記念事業の一環として建立されています。 昭和9年(1934)には東洋陶磁研究所の小山富士夫·田沢金吾両氏によって発掘調査が行われました。この調査では、窯本体と小規模な物原がみつかり、窯道具・陶器片・陶土・瓦が出土しました。窯の構造は朝鮮系の 「半地下式単室傾斜窯」とされ、窯壁の焼け具合と遺物の少なさから窯の そうぎょう 操業が短期間であったと推定されました。(「薩摩焼の研究」)。 その後、宇都窯は昭和38年(1963)に姶良町史跡に指定されました。、 しょうさいはあく 平成12年(2000)、町教育委員会は改めて窯構造の詳細な把握を目的 に発掘調査を行いました。その結果、次の新事実が明らかになりました。 ①窯に改築の痕跡が認められ、2時期(Ⅰ期・Ⅱ期)に分けられること。 Ⅱ期の窯は国内に類例のない非常に特殊な構造であること。 Ⅰ期の窯の特徴的な遺構は、3本の時に区切られた4本の排煙溝です【図 ①E-F断面、写真2】。畦の幅は約15cm、溝の幅は約20cmで等間隔に 配置されていて、窯の正確な設計がうかがえます。 排煙溝の先には長さ約1m、幅約1.1~1.3mの平面台形の空間が掘られ、 けむりだ 煙出しと考えられます【図1C-D断面】。この煙出しの壁面には、岩盤を削った工具の痕が明瞭に残っています。 Ⅰ期の窯の痕跡は排煙溝と煙出しにみられるだけで、その他の 部分はⅡ期の窯の築造によって削られて残っていません。さらにⅡ期には Ⅰ期の排煙溝と煙出しを瓦・土砂で埋め【写真3】、新たに粘土で床を貼り、 全長約6.7mの細長い窯に造り替えたと考えられます。 遺物はⅠ期の煙出しを埋めた瓦以外に、窯の周辺から陶器片や窯道具が しゅつど ちゃいれ 出土しました。陶器片は白い粘土を用いた抹茶碗や釉薬のかかった茶入の けいしゅ つきもの 破片、窯道具は傾斜した床面に焼物を置く台があります 



◇◆◇◆◇

そして、狭い市道を引き返し、花園寺跡公園の

道路向かいにある島津義弘公を祀る帖佐(高麗)

八幡稲荷神社を、曇りで、さわやかな風吹き

涼しく野鳥の鳴き声たくさん聞こえる中

久しぶりに、16時16分頃に参拝しました。


帖佐(高麗)稲荷神社










【帖佐(高麗)稲荷神社】
島津義弘が二度目の朝鮮出兵(慶長の役)で、泗川に新寨(城)を 構えこれを守っていたが、慶長三年十月一日董一元を大将とする二〇万 の明軍に攻められた。島津軍は鉄砲隊でこれを防いだが、このとき赤・ 白二匹の狐が火薬を抱いて明軍の中に突入し自爆したという。一狐は敵 の矢に当たって死んだ。このため明軍は大いに混乱し、島津軍も城門を 開いて突出し、遂に明軍を撃退した。義弘はこの狐の出現を、稲荷神の 加護によるものとしてその骨を壺に納め、陣僧頼雄法師(增長院住持)、 修験佐竹光明房に持ち帰らせ、同年十二月二十八日帖佐平山城の高尾に祭った。
以後代々の藩主は氏神として深く崇敬し、第二七代斉興は社司篠原駿河を京都に派遣し、京都神祇官長下部家に神階を請願した。その結果、 文政六年二月に正一位高麗稲荷大明神の神号を与えられた。その後高尾 の社地が崩壊のおそれがあるということで文政十年二月現在の地義弘公 治所(御屋地)跡に移された。
この稲荷神社は、その故事から「高麗稲荷」あるいは「戦死稲荷」 とも呼ばれている。元来稲荷社は農耕神、商業神を主たる神格とする ものであるのに対し、当社はその創建時において、いささか趣を異にす るものであったといえよう。今では一般の稲荷社と同様の信仰対象とな っている。
『神社調』では「神狐」となっている。これが本来の祭神と考えるべき であろう。旧郷土誌は「赤狐、白狐」としているが、意義は同じである。 その後いつのころからか「宇迦之御魂神」が加えられた。この神は 稲の精霊神で、京都伏見の稲荷大社をはじめ各地の稲荷社の主祭神であ る。文政六年に神号を与えられたとき、同時に分霊されたものであろう か。
白狐・瀬戸口弥七重治(帖佐)赤狐・市来清十郎家綱(鹿児島)
明治四十三年二月に菅原神社を、翌四十四年二月に八坂神社を合祀し たが、これ以後祭神は宇迦之御魂神、菅原道真、須佐之男命、稲田姫命 となっている。


◇◆◇◆◇

そのあと、帖佐小学校前を通り、県道を渡り

別府川沿いを下流方向に進み

曇りで、さわやかな風吹き抜け涼しい

野鳥の鳴き声聞こえる九州自動車道高架橋より

上流側で、16時30分頃に、

『別府川と九州自動車道の高架橋と河畔に咲く

とっこう花など』を眺めました。












そのあと、県道沿いや国道沿いを進み

17時過ぎに帰宅しました。

◇◆◇◆◇

夜、少し蒸し暑い夜に、姶良市加治木 町から

県道沿いを走り蒲生町の姶良市温泉センター

楠の湯に行き、19時20分~20時20分頃まで、

温泉や、サウナ、露天風呂に入ったりして気持

ち良い時間を過ごしました。

夜の姶良市温泉センター楠の湯












そして、車を走らせ帰宅しました。

昨日は、車を使った時間短く

充分にウォーキングを楽しめた日と

なりました。