皆さん、おはようございます。

4時過ぎに起きた4月25日の朝です。

昨日24日は午前中は曇りで、田の神様や

姶良市加治木町木田地区の史跡を見たり

鹿児島神宮の御神馬と会ったりしました。

まぶしい太陽輝く夕方は、日豊本線沿いと

網掛川沿い進み、加治木港に着き、桜島と

錦江湾の風景と夕陽や夕焼けを見られました。

では、昨日撮した写真をご覧ください。


桜島と鹿児島神宮御神馬とまぶしい夕陽



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紹介します。再び国会で活躍して欲しい。

庶民の声、鹿児島県民の熱き声も

国会へ全国に届けて欲しい期待のある

鹿児島の政治家→川内ひろしさんです。

#南日本新聞

立民・川内博史氏が衆院九州比例で繰り上げ当選 長崎3区補選に立候補、自動失職した山田勝彦氏の欠員補充 



衆院比例代表九州ブロックの選挙会は24日、衆院長崎3区補欠選挙に立候補した立憲民主党の山田勝彦氏の自動失職に伴う欠員補充のため、2021年衆院選の立民比例名簿に基づき、元衆院議員川内博史氏(62)の繰り上げ当選を決めた。25日に官報で告示され、当選証書が渡される。


川内氏は前回衆院選で鹿児島1区から7期目を目指したものの、自民現職の宮路拓馬氏(44)に約1万2000票差で敗れ、比例復活もかなわなかった。比例名簿は

23年に屋良朝博氏が繰り上げ当選したことから、川内氏が次点となっていた。


長崎3区補選は自民党派閥の政治資金パーティー裏金事件を巡る谷川弥一氏=自民離党=の辞職に伴う。川内氏は「国内外で課題が山積する中で議席を預かる重みを心に刻み、県民、国民のために努力したい」と話した。


川内 博史氏(かわうち・ひろし)62 立元(7) 党鹿児島県連選対委員長(党政調会長代行、衆院文部科学委員長、国土交通委員長)早稲田大卒、鹿児島市


川内 博史氏(かわうち・ひろし)62 立元(7) 党鹿児島県連選対委員長(党政調会長代行、衆院文部科学委員長、国土交通委員長)早稲田大卒、鹿児島

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9時30分頃に自宅を出かけ

まぶしい太陽の陽ざし強く暑いが

少し強く風吹き抜け涼しいくもある

鹿児島県姶良市加治木町の小鳥の鳴き声聞こえ

る新中公民館の庭に行き、9時57分に

『田の神様(たのかんさあ)』を見られました。









新中集落▪西之原集落の住宅街を通り

樹木の木陰でさわやかな風吹き抜け涼しい

国の史跡に指定された加治木島津家墓所▪

長年寺跡を小鳥のさえずり聞こえる中

10時10分頃に、訪ねました。 

【国指定史跡▪長年寺跡と加治木島津家墓所】 
鹿児島島津家墓所
指定年月日 令和2年3月30日
国史跡 加治木島津家墓所〔長年寺墓地〕
【加治木島津家の歴史】
加治木島津家は、晩年を加治木で暮らした島津義弘の遺命を受けて、戴永8年(一六三一) 初代藩主家久が二男・忠朗に創設させた分家です。義弘が築いた屋形(現・松城小学校)を居館 とし、明治2年(一八六九)に10代久賓が版籍奉還により領地を朝廷に返還するまで、私領主と して加治木郷を支配しました。本家が断絶した時に跡継ぎを出す「一門家」として格付けされ、 4代久門と5代久方は本家に復して7代藩主重年、8代藩主重豪となり、憲政を担いました。
【十松龄山長年寺の歴史】
長年寺の前身は、加治木城大手口の東にあった「殿風山大樹寺」で、慶長12年(一六〇P) 加治木に屋形を構えた義弘は土地や金銭などを寄進して崇敬し、息子の家久は父・義弘や母・ 実窓院の位牌を安置してたびたび参詣したといわれています。しかし、寺が加治木屋形の鬼 門(=北東)にあたることから、家久は鹿児島・福昌寺(島津本家の菩提寺)の奪叟和尚に 新しい寺地を調べさせて、寛永川年(一六三七)、現在地に寺を移しました。その後、島津忠朗 の要請で福昌寺の末寺となり、寺号を「松齡山長年寺」と改めました。 寺には、義弘や義弘夫人の他に、家久(初代藩主)、光久(2代藩主)、興賞(3代藩主)の位牌が安置されていたと記録され、島津家から厚い庇護を受けた寺院であったと考えられます。
『三国名勝国会(天保日年)」の絵図には、五老峰を背に長年寺が描かれています。境内の最奥部に本堂と思われる建物があり、本堂に向かって左手に天照大神を祭神とした鎮守堂、右手に鐘楼と考えられる高層の建物が確認できます。本堂は東向きに建てられ、遠く龍門滝・蔵王嶽・黒川岬が眺望でき、東の能仁寺と向かい合う加治木の名制の一つであったと考えられます。門をくぐった左手の石段上にある柵で囲まれた石碑は、島津都美供養碑(亀趺碑・亀墓)です。当時の墓所は入口に門があり、塀で囲まれていたことが分かります。
長年寺は明治2年の廃仏毀釈で廃寺となり、現在は墓所だけが残され、墓碑2基、燈籠基、六地蔵塔(石幢) 1基、供養塔(碑) 4基、手水鉢1基、層塔1基があります。参道 (石段)を登った正面には島津都美供養碑、右手には加治木島津 家2代久薫夫妻が葬られた石廟形の大きな墓がみられます。

















そのあと、風吹かず、空からの熱伝わり

蒸し暑い、野鳥の鳴き声聞こえる中

田園地帯を進み、西之原公公館前に着き

10時25分に、田の神様に会いました。

西之原公民館の田の神様






西之原集落田園風景


曇りで、少し風強いが、空からの熱伝わり蒸し

暑、野鳥の鳴き声聞こえる中、西之原公民館を

離れ、山沿いの道を歩き田んぼの中にある

田の神様を、10時35分に眺めました。


西之原集落田園地帯の田の神様








再び山沿いの道を少し進み

日向はまぶしい太陽の陽ざし強く暑いが

樹木の木陰はさわやかな風吹き抜け涼しい

伊勢神社鳥居付近に、10時45分に

立ち寄りました。

姶良市加治木町▪西之原集落の伊勢神社








さらに山沿いの道を進み、西之原集落端の

烏の鳴き声聞こえる九州自動車道の見える

麦畑付近を、10時55分頃に通りました。

西之原集落麦畑








そして、曇りで、空からの熱伝わり蒸し暑中

九州自動車道より山手側の田園地帯を歩、

小鳥の鳴き声聞こえる島津家別荘跡の

鴻之巣園跡を、11時5分頃に、昨年12月以来

訪ねました

【史跡▪鴻之巣園跡】
ここはかつて島津家の別荘があったとされる場所で、豊臣秀吉の命に従い島津義弘が出陣した文禄・慶長の役の際に、朝鮮 おうじ から連れてこられた王子が生活していたといわれています。
王子は故郷を恋しく思い、いつも泣き悲しんでいたので、 ぱんやく そこく 番役の武士は「祖国が見える場所に連れて行く」と言っては時々連れ出し、高い峰の上で酒宴を催し、舞を披露させたりして慰めたとされています。
この故事にちなみ、前方の湯之谷川を越えた向かい側の山を 「高麗舞の峰」と呼んでいます。その後、朝鮮から使者が来て、 王子は無事に帰国できました。
寛政9年(1797)加治木島津家6代・久徴は、加治木の文教発展に寄与した長崎出身の高名な儒学者・伊藤世粛の撰による「鴻之巣園記」を刻んだ記念碑を建立しました。
【昭和38年12月27日指定姶良市教育委員会】











九州自動車道より山手側田園地帯の道近くの

山影でジメジメして蒸し暑い中

『薬師如来像』11時20分頃に、

を久しぶりに訪ねました

【薬師如来像(製作▪1557年)】
薬師如来像
『花城名勝誌』によるとこの木像の胎内に納められた文書に次のことが書かれていました。 製作年代▪弘治三年(五五七) 八月吉日、この年、島津貴久は蒲生領主涌生範清を滅ぼしています。この頃の加治木領主は 肝付兼演で、貴久の配下としてたびたび蒲生氏と戦っています。「川中島の戦い」や「桶狭間の合戦」の頃です。
「快」の字が名前にあることから、岩屋寺の石仏製作者の「快扶」と関係がある のではないかと考えられます。
製作の場所 下木田村地蔵堂延命庵のあった所に實窓寺が建立されますから、木田の楠園で造られたことになります。
一九九六年、この土地と薬師如来を加治木町に寄付された岩屋氏のこ先祖と考えられる。岩屋門の乙名の六郎五郎、その妻の乙、息子の又五郎の三人が造ったのでしょう。
薬師如来は人々を病気の苦しみから救つて下さると信仰されて いました。約四百五十年もの昔、木田村には自分の財力で 高さ 六尺(一、八m)もの大きな木像を造り、それを収めるお堂を建てる ほとの有力な百姓かいたことになります。また、そういう仏像やお堂を造れる仏師や大工などの技術者か、この地域にいたということは、当時の加治木の文化がか なりの高さをもつていたことを示します。腕を失っていますか、戦国時代における加治木の仏教文化の水 準を今に伝える貴重な文化財です。
姶良市教育委員会













そして、田んぼのあぜ道を通り抜け

九州自動車道沿いの狭い道ゆ進み

高架橋下を通り抜け、中福良集落と

楠園集落の住宅街を通り抜け

曇りで、少し強い風吹き抜け涼しい中

姶良市加治木町木田地区の鹿児島神宮で

鈴かけ馬躍りを一番目に踊る鹿児島神宮の

御神馬、令号と3月3日の初午祭の日以来、

11時40分頃に、会いました。


鹿児島神宮初午祭で馬踊りを披露する御神馬












そして、12時10分頃に帰宅しました。

◇◆◇◆◇

16時40分頃に出かけ、まぶしい太陽の陽ざし

は強いがさわやかな風吹き抜け涼しく感じる

行き交う車のかなり多い姶良市加治木町の

錦江駅近く国道陸橋へ登り、16時50分に

『桜島と加治木町岩原集落田園風景』を

眺めました。







そして、日豊本線沿い市道沿いを進み

まぶしい太陽の陽ざし強いが、少し強い風吹き

抜け涼しい日豊本線沿い枝元教材社前で

17時5分に、『八重桜と青空』を見渡しました










さらに日豊本線沿い市道沿いを進み

まぶしい太陽の陽ざし強いが

少し強い風吹き抜け涼しい、姶良市加治木町を

流れる網掛川に架かる堰の轟音聞こえる田中橋

を渡り、17時12分に『上流の網掛川の風景』を

眺めました。



そして、網掛川沿いの市道を下流方向に進み

まぶしい太陽の陽ざし強いが、強い風吹き抜け

涼しい、野鳥の鳴き声聞こえる姶良市役所

加治木総合支所近くの網掛川公園を通り

17時25分までに、『桜島とまぶしい太陽と

網掛川の風景と網掛川公園に咲く花』を

見られました。











さらに下流方向に進み、加治木港に着き

まぶしい太陽の陽ざし強いが、強い風吹き抜け

涼しい加治木港メインバースの西端から

17時52分に、『桜島と錦江湾と加治木港風景と

まぶしい太陽』を眺めました。









そして、漁協建物の前を通り

まぶしい太陽の陽ざし強いが

強い風吹き抜け涼しい加治木港の

漁船岸壁前付近で、18時頃に

『桜島と錦江湾と加治木港風景とまぶしい

太陽』を見渡しました。








そして、中央防波堤近くを通り

まぶしい夕陽の陽ざし強いが

強い風吹き抜け涼しい黒川河口に近い防波堤で

18時5分に、『桜島と錦江湾とまぶしい夕陽と

加治木港の風景』を見渡しました。











そのあと中央防波堤行くを通り

まぶしい夕陽の陽ざし強いが

強い風吹き抜け涼しい、ザワツク波音聞こえる

黒川河口に近い岸壁へ行き、18時15分に

『桜島と錦江湾とまぶしい夕陽と加治木港の

風景』を見られました。










そして、まぶしい夕陽の陽ざし強いが

強い風吹き抜け涼しい、ザワツク波音聞こえる

加治木港の堤防上に登り、18時25分に

『桜島と錦江湾とまぶしい夕陽と加治木港の

風景』を見られました。










そのあと、加治木港上の堤防通りを進み

夕暮れの少し強い風吹き抜け涼しい

網掛川河口近くの堤防の上で、18時48分に

『網掛川河口の夕焼け』を見られました。







そのあと45分間ほど、次第に暗くなる中

歩き、真っ暗になり帰宅しました。

昨日は、天気に問題なかったのに、

ウォーキング不足の日となりました。