皆さん、おはようございます。

6時前に起きた3月6日の朝です。

現在6時41分、室温15. 9度暖かいです。

3日前より10度高いから。

昨日、姶良市加治木町は雨降る日となりまし

た。そんな中、公立高校入試の行われてた

加治木高校や錦江小学校を眺めたり、雨に濡れ

た菜の花やれんげ草を見られました。

そんな日の写真を掲載します。


姶良市立錦江小学校と鹿児島県立加治木高校

◇◆◇◆◇

8時20分頃に自宅を出かけ、雨降り涼しい、

小鳥のさえずりたくさん聞こえ、行き交う車の

多い姶良市加治木町の錦江駅近く国道陸橋と

陸橋近くで、8時33分までに、

『日豊本線▪錦江駅と加治木団地の風景と

菜の花』を眺めました。















そして、国道沿いを進み、雨降り、風弱く寒く

はない中、行き交う車かなり多い国道10号沿い

の加治木まんじゅうの名店のひとつ堂免堂さん

前を、9時45分に通りました。

加治木まんじゅう▪堂免堂








そして、行き交う車のめちゃくちゃ多い

姶良市立錦江小学校前を8時52分頃に

通りました。


姶良市立錦江小学校











さらに国道沿いを進み、左に曲がり市道沿いを

進み、本格的な雨降り、涼しい姶良市加治木町

を流れる網掛川に架かる錦江橋で、9時頃に

網掛川上流の風景などを見渡しました。

網掛川の風景





姶良市役所加治木総合支所


そのあと、広い市道沿いを進み、本格的な雨降

り、風弱く寒くはない姶良市役所加治木総合

支所近く中学校踏切付近で、9時11分に

『日豊本線▪中学校踏切を走った下りの特急

きりしま』を見られました。







そして、仮屋通りを進み、少し強い雨降るが

風弱く寒くはない市道仮屋通り沿いの歩き

加治木郷土館の庭を雨降る中、9時15分頃に

見学しました


姶良市加治木町の加治木郷土館の史跡











皆さん、こんにちは
本格的な雨降り、涼しい中、加治木郷土館から市道▪仮屋通りを進み、3月5日鹿児島県公立高校入試の第1日目の行われている鹿児島県立加治木高校前を、9時30分頃に通りました
【鹿児島県公立高校入試会場▪加治木高校】


















皆さん、こんにちは
小雨降り、さわやかな風吹き抜け涼しい
鹿児島県姶良市加治木町日豊本線の
新道踏切付近から
9時45分
【日豊本線▪新道踏切と新道屋】

















皆さん、こんにちは、小雨降り、涼しい
鹿児島県姶良市加治木町本町付近で
加治木銭に関する説明文(案内板)を
見つけました。






【銭の歴史▪加治木銭】


この一帯は、中国から輸入されていた銭を模造した私鋳銭が造られてい たため、「銭屋町」と呼ばれていました。多くは中国の洪武年間1368~1398) に鋳造された「洪武通宝」から鋳型を作ったため「加治木洪武」と呼ばれるこ とがあり、一般的には「加治木銭」と呼ばれています。
日本の初期貨幣は、中国の制度にならって「富本銭 (683)」や「和銅開珎 □18)」が造られ、平安時代の中頃までに「皇朝十二銭」も造られました。しか 自幣経済が浸透しなかったため、生産量も流通量もわずかで、庶民は物 交換や、布や穀物などを貨幣の代わりにして物品交換を行っていました。
平安時代末になると、経済が発達するにつれて、貨幣の必要性が高まり、 国から輸入した(渡来)が流通するようになりました。この頃、貨幣経済 一発に寄与したのは平清盛です。清盛は、中国との貿易に着目し、それま このように博多を中継しない中央への直接航路を確立しました。つまり平家
加治木銭は、背面に「加」 「治」 「木」のどれか一文字が鋳出されており判 別しやすく、また、やや小ぶりで鉄分を少し含んでいることなどが特徴です。
16世紀後半には、東北から九州まで全国各地で私鋳銭が造られるように なりました。これまで私鋳銭の製造地が判明しているのは加治木銭だけとい 見されています。 われていましたが、近年の発掘調査で、鎌倉・堺・福岡などでも工房跡が繁栄が本格的な貨幣経済への導入につながったと言えます。
続く鎌倉幕府・室町幕府は践を鋳造しなかったので、日本の貨幣経済は続き輸入された中国践が支えました。それを裏付ける例として、韓国沖 二発見され引揚げられた沈没船は、1323年に中国から日本に向っていた質 で、積荷に約800万枚、約28の銅銭が積み込まれていました。
16世紀になると、商工業が発展し貨幣の需要が増大しました。中国錫は造 よく品質も安定していたため人気がありましたが、絶対量が不足していた こめに、日本各地で中国を模造した私が造られ大量に出まわるように または、中国に比べ材質や形状も悪く「銭びたせん」 呼ばれており、悪な私は、受け取りを拒否されるなど社会問題にな ました。
16世紀の終わり頃とする説が有力で、遺跡出土の加治木銭から見ても1610年代 加治木銭の鋳造開始時期は、諸説あって明確な史料はありません。寛永13年(1636) には流通していたようです。生産が終わるのは、江戸幕府が寛永通宝を発行指摘されていました。近年は東南アジア貿易に熱心だった島津義弘が、朝鮮 出兵などで疲弊した領国経営のために鋳造したとも考えられています。 古くから加治木銭は、ベトナム・フィリピン・台湾などの海外貿易品であると▪▪
平成26年に発掘調査が行われ、加治木銭と鋳造道具の「坩堝一るつぼー」 が大量に出土したため、この一帯は鋳銭所であったことが裏付けられました。
天下統一した豊臣秀吉は、約600年、よりに公の貨幣を造りましたが、美 用貨幣で、世に流通することはありませんでした。
江戸時代になると徳川家康は金を設置し金銀貨幣を統一、3代 の「寛永通宝」が発行されました。これにより 三がろい、経済的な国内統一が完成しました。併せて、渡来 使用禁止令が出され、日本独自の貨幣制度が誕生しました。

姶良市教育委員会




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15時10分頃に、自宅を出かけ、国道沿いと

市道沿いを進み、細かい雨降り、寒くはない

鹿児島県姶良市加治木町の新中公民館の庭に

15時30分頃に立ち寄り、『雨に濡れる新中公民

館の田の神様(たのかんさあ)』を見られました。
















そのあと、細かい雨降り、風吹かず少し蒸し暑

い野鳥の鳴き声聞こえる中、加治木町の西之原

集落の田園地帯を歩き西之原公民館を訪ね

15時45分頃に、田の神様に会いました。


西之原公民館の田の神様








西之原公民館を離れ、山沿いの道を歩き

田んぼの中にある田の神様と15時55分頃に

眺めました。

西之原集落田園地帯の田の神様










そして、山沿いの道を進み、右に曲がり

細かい雨降り、風弱く涼しい野鳥の鳴き声聞

こえる西之原集落のの田園地帯を進み

16時7分に『田園風景と菜の花とれんげ草』を

眺めて、








さらに、西之原集落の田園地帯を進み

16時15分にら『田園風景に咲くれんげ草』

を眺めました。













そのあと、西之原集落の田園地帯を離れ

国道沿いを進み、疲れはて帰宅しました。

雨降る3月5日、自己満足のウォーキングデーと

なりました。