皆さん、おはようございます。

5時半過ぎに起きた2月26日の朝です。

外はまだ真っ暗、現在5時46分、室温12.0度

外は晴れて、冷たい風吹いています。

昨日、鹿児島県姶良市加治木町は、

加治木港や国道10号姶良橋で、桜島を見ること

が出来ました。そんな日の写真を、

掲載するので、ご覧ください。


①桜島と錦江湾と加治木港②網掛川の堰と鷺
③岩ツツジ④れんげ草

◇◆◇◆◇

8時40分頃に自宅を出かけ

細かい雨降るが、風邪吹かず涼しい

田中大橋より上流の網掛川沿いの土手に咲く

菜の花を、9時20分頃に眺めました。


雨に濡れた菜の花











そのあと、細かい雨降り、風吹かず涼しい

野鳥の鳴き声聞こえる中、網掛川に架かる

田中大橋を、9時25分頃に渡りました。

網掛川下流の風景


そして、川沿いを下流方向に進み

雨降り、寒くはない、網掛川に架かる田中大橋

と田中橋の間ぐらいの網掛川▪堰の轟音

聞こえる川沿いで、9時30分頃に

『網掛川の堰と鷺』を眺めました。













さらに、下流方向に進み

小雨降り、風吹かず寒くはない

日豊本線▪網掛鉄橋近く下流側で

9時37分に、『網掛鉄橋を渡った上りの列車』を

見ることが出来ました。











そして、小雨降り、風吹かず寒くはない中

姶良市役所加治木総合支所と網掛鉄橋との間ぐ

らいの網掛川沿いで、9時44分頃に

民間の庭に咲く岩ツツジを眺めました。


雨に濡れた岩ツツジ


そのあと、10分以上川沿いを進み

加治木港上の堤防通りを経由して

加治木港に着き、漁協建物前を通り

小雨降り、風弱く少し蒸し暑く感じる

野鳥の鳴き声、たくさん聞こえる中

漁船岸壁前を通り、10時10分頃に

中央防波堤に着き、『桜島と錦江湾と加治木港

の風景と青鷺』を見られました。


桜島と錦江湾と防波堤にいた青鷺











そのあと、加治木港の黒川河口に近い防波堤に

異動し、10時20分頃にも

『桜島と錦江湾と加治木港の風景』を

眺めました。
















そして、漁船岸壁近くで階段を登り

小雨降り、風弱く少し蒸し暑い

野鳥の鳴き声たくさん聞こえる加治木港の

堤防の上で、10時28分に

『桜島と錦江湾と加治木港の風景』を

見渡しました。




そして、曇りで、少し冷たい風吹き抜け肌寒い

小鳥やカラスの鳴き声たくさん聞こえる

桜島と錦江湾と黒川岬を見渡せる黒川岬展望公

園に立ち寄り、男性高齢者の知人と地域猫の

話をしたりしました。そのあと

10時55分頃に、『桜島と錦江湾』を

ゆっくりと眺めました。














そして、50分間ほど歩き、疲れはて

帰宅しました。

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15時過ぎに自宅を出かけ

曇りで空からの熱伝わるが、少し強い風吹き

抜け涼しい、行き交う車のかなり多い

国道10号姶良橋へ行き、15時18分に

『桜島と錦江湾▪別府川周辺の風景』を眺め













そして、しばらくうろうろして

15時27分に、『桜島と錦江湾▪別府川と

日豊本線▪姶良鉄橋を走った下の列車』を

見られました。














そのあと、川沿いにあるドラッグストアで

買い物をして、再び、行き交う車のかなり多い

国道10号姶良橋へ行き、16時5分に

『桜島と錦江湾▪別府川と日豊本線▪姶良鉄橋

を走った下の特急きりしま』を見られました。














そのあと、国道沿いを歩き、帰宅して

買い物をした品物を置き、再び、国道沿いを

歩き、市道を経由して、曇りで、少し冷たい風

吹き抜け肌寒い野鳥の鳴き声たくさん聞こえる

西之原集落の田園地帯を進み、16時45分に

『田園風景とれんげ草』を見られました。










さらに、田園地帯を進み、山沿いの道を経由し

西之原公民館に、16時55分頃に着き

訪ね田の神様に会いました。

西之原公民館の田の神様











再び、西之原集落の田園地帯を進み

湯之谷川に架かる橋を渡り、楠園集落の

田園地帯や住宅街を通り

曇りの夕方でさわやかな風吹き涼しい

楠園公民館近くの島津義弘公と関わりある

中国人の江夏友賢の墓』を17時17分頃に

訪ねました。











【江夏友賢の墓】
友賢は1538年、明国福建省江夏郡に生まれました。出身地から「江夏」を 名乗り、または漢民族の先祖である 「黄帝」 の子孫として 「黄友賢」とも称し ました。
幼い頃より朱子学 (※1) や易学を学び、23歳で日本に渡来しました。はじめ、 京都で易を行っていましたが、やがて戦乱をさけ薩摩に移りました。薩摩では 薩南学派 (※2)の高僧一翁和尚文之和尚 (※3) と親交を重ねたそうです。
天正10年(1582)、島津義弘から八代城へ呼び出され、易を行ったことから 家来となり、朝鮮の役にも従軍しました。友賢は、この戦いで認められて、島 津義弘に従い上京した時、豊臣秀吉から家来にしたいとの申し出もありました が、「臣、二君に仕うるは深く恥じる所となす」 と断ったそうです。またこの 話は都で評判となり朝廷から 「先生」の称号と、占いに使う道具を拝領しました。 友賢は、島津義弘や家久に信頼され、加治木屋形や鹿児島(鶴丸) 城を築く 際の占いや縄張り(城や城下町の設計) なども行いました。
73 歳で亡くなり、実窓寺に葬られました。
黄翁環溪先生 江夏氏墓
墓碑
慶長十五年(1610) 庚戌(かのえいぬ) 七月二十三日
※1 朱子学 中国・南宋時代に集大成された新しい儒学。敬を忘れず行を慎んで知を磨き、 人格・学問を完成する実践道徳。日本には鎌倉時代に伝来し、江戸時代に普及し官学と して封権社会の中心思想となった。
※2 薩南学派 京都臨済宗の僧侶・桂庵玄樹が、応仁の乱の混乱を避けて鹿児島に入り朱 子学を講じた。島津氏一族や家臣がこれを学び、多くの弟子に受け継がれて隆盛した。
※3 文之和尚 幼い頃から文殊童と呼ばれ、串間の龍源寺一翁和尚の弟子となり、薩南学 派の朱子学を学んだ。京都東福寺で 「大学」を講じ、島津義久・義弘・ 家久に仕えて、 島津氏の政治・外交の顧問役も務めた。1620年、加治木の安国寺で死去。墓は国指定 文化財。

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そのあと、広い市道沿いを進み、国道の

横断歩道を渡り、曇りの夕方で少し冷たい風

吹き抜け肌寒い国道10号加治木バイパス沿いの

姶良市立加治木小学校前を、17時30分頃に

通りました。

姶良市立加治木小学校の風景











そのあと、加治木団地の市道、国道沿いを進み

帰宅しました。

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晴れて、寒い夜に、国道10号加治木バイパス近

くの加治木温泉に22時頃に行き、23時頃まで

温泉に入ったりサウナに入ったりしして

体はポカホカになり、『加治木温泉』を

離れました。













昨日は、なんとか2万歩を歩け

自己満足のウォーキングデーとなりました。