皆さん、おはようございます。
昨日の午後から降りだした雨降り続く
現在5時47分室温19.4度、湿度81%の涼しい朝と
なりました。
昨日、曇りで始まり、ウォーキング中に青空や
まぶしい太陽を見られた。しかし、15時以降、
雨の降るに日なりました。そんな日に撮した
写真を掲載したので、ご覧ください。
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8時00分過ぎに、自宅を出かけ
薄曇りでさわやかな風吹き抜け涼しい
たくさんの野鳥鳴き声聞こえる
網掛川に架かる堰の轟音聞こえる田中橋を渡り
9時5分に『上流の網掛川』を眺めました。
そのあと、黒川岬展望公園に立ち寄り
いつも会う男性と初めて会った女性と
猫について話しをして、そのあと日木山川
(黒川)沿いを上流方向に進み、国道を渡り
薄曇りで空から熱伝わり蒸し暑い、
日木山菜の花ロードを訪れ、河津桜を
10時20分頃から30分頃まで
『日木山菜の花ロードに咲く河津桜』を
眺めました。
そして、田中橋を渡り、日豊本線沿いの市道
国道沿いを進み、帰宅しました。
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そのあと自宅でゆっくりと過ごし
窓越しに、まぶしい太陽も見られていました。
しかし、ウォーキングに出かけた時は
雨となりました。
そんな中、雨降り、寒くはない加治木町の
加治木団地の中央通り近くの民間の庭に咲く花
『岩つつじ』を16時頃に見られました。
そのあと、国道を渡り、住宅街の道を通り
曇りでさわやかな風吹き抜け涼しい
野鳥の鳴き声聞こえる上木田集落の田園地帯を
歩き、16時55分頃に『田んぼに咲くれんげ草』
を見渡しました。
そのあと再び住宅街の道を通り抜け
市道を渡り、加治木中央交番の道路向かいの
島津義弘公の死去に伴い殉死した武士の墓の
ある実窓寺蹟を、17時20分頃に訪ねました
1619年に造られた実窓寺磧
姶良市指定史跡▪実窓寺磧
島津義弘は元和五年(一六一九)七月二十一日、加治木屋形で八十五年の生涯を 終えました。この時、藩主家久は殉死を禁じましたが、義弘に深い恩義を感じてい た家臣十三名(左記)が密かに切腹の誓詞を交わし殉死しました。
折田和泉 入枝佐五右衛門尉 色紙仲兵衛尉 木脇刑部左衛門尉 新納式部少輔 池田六左衛門尉 藺牟田縫殿助 山路後藤兵衛尉
原蔵人 坂元番左衛門尉 椎原与右衛門尉
藤井久助 桐野治部左衛門尉
ここ実窓寺債は、義弘の遺骸が鹿児島福昌寺へ向けて加治木を出発する八月十六 日に、家臣七人(赤字)が切腹自刃した場所です。 当時、この事跡を記念する松が植えられましたが、長い年月の間に枯れたため、 加治木の諸士はこの旧跡がなくなることを憂えて、安永五年(一七七六)に石碑を建立しました。また、加治木島津家第六代久徴は天明五年(一七八五)に石燈籠を建て、毎夜明かりを灯しました。明治四十四年(一九一一)には、この石碑・石燈寺が荒廃していたため、稲恒重節らが中心となり修築のための寄付金が集められ、 敷地の拡張と整理が行われました。昭和五十四年(一九七九)に木田本通線が開通し、現状に至っています。なお殉死者のうち、加治木在住の折田和泉と木脇刑部左衛門尉は椿窓寺墓地、 入枝佐五右衛門尉は吉祥寺墓地に葬られています。折田和泉の墓木脇刑部左衛門の入枝佐五右衛門
平成二十六年一月 姶良市教育委員会
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そのあと、国道沿いに出て、10分間ほど歩き
帰宅しました。
雨降り2月21日も、皆さん、お元気に
お過ごしください。