こんにちは。



オペラといえば、イタリヤかドイツですよね。
では、日本人の手より制作されたオペラは知っていますか。



まず、夕鶴ですね。今年も遠奏されています。

日本人はオペラを敬遠していると思っていました、
最近は静かなブームになっていると聞かされて括目しているところです。



ところで「修禅寺物語」というオペラは知っていますか。
もともとは岡本綺堂により、戯曲として書かれたもの、
戯曲としては有名です。

それに清水脩が作曲し1954年にオペラとして、初演されました。



私の故郷、湯ヶ島(今は伊豆市湯ヶ島)の隣町修善寺にある
源頼家のゆかりの寺「修禅寺」を舞台とした、悲劇の物語です。
地元だけに、幼い時から、聞かされて育ちました。



先日、鎌倉散策の記事を書きましたが、
伊豆にも源頼朝が潜伏していた時期があったのです。



伊豆地方には源氏の痕跡が色濃く残っているのです。
実は私の実家の敷地の一角にも源氏ゆかりの史跡があります。
だから興味があります。



頼家は頼朝の長子、将軍になりますが、北条の策略により、
なんと母の北条政子により、修禅寺に幽閉されてしまいます。
そして北条氏の手で暗殺されてしまいます。



下剋上の最たるもの。
源一族は実朝までが、鶴岡八幡宮で暗殺され、北条がとって変わります。
後の戦国時代になる種はこの時に芽生えていたのでしょう。
結局北条も足利氏に滅ぼされます。


鎌倉の鎌倉宮にまつられる、ご醍醐天皇の皇子、
護遼親王の悲劇もこの時の後期の時代。


http://gaku-nao.blog.so-net.ne.jp/2015-06-19



朝廷政治から武家政治の転換点の時代でした。

当事者にすれば、凄惨、でも後世からすれば、戦国ロマンの時代。
平家の滅亡も、源一族の悲劇も壮大なロマン。



「修禅寺物語」は、面うち師夜叉王と、その娘かつらの物語です。
かつらは、頼家に見初められ若狭という名で側女になることに。



しかし、暗殺者の魔の手が迫ります。そして頼家は暗殺され、
かつらは頼家の面をつけて囮になり、刺客と闘います。
ひん死の体で、父夜叉王の元に逃れます。



そして、親子で交わされる会話。
冷酷な夜叉王、涙をそそられずにいられません。
夜叉王の心情はいかに。


修禅寺物語も悲劇でおわります。
かつらは、結局死んでしまいます。



娘の死、かなしいはずなのに、感情を押し隠し、

ひん死の娘の顔を写すという鬼気迫る行為。



でも、父娘の間には何かしら繋がっているものがある、
でなければ、かつらが夜叉王の言葉に従う筈はありません。
でも、それが何なのか未だに考えてもわかりません。



修禅寺物語、私はオペラはみたことはありません。
でも戯曲は読んでいます。
舞台は凄惨な幕切れを見ようとは思いませんでした。



オペラは、楽曲と違い物語性があります。
またオペラではありませんが、

舞台装置のないオラトリオも物語性があります。



今年、オラトリオ「エリア」を聴きました。

大変楽しい演奏でした。


http://gaku-nao.blog.so-net.ne.jp/2015-03-03



昨年はオペラを聴き、マダム・バタフライの悲劇に涙し
今年はオラトリオを聴くことが出来て幸運です。
機会があれば、修禅寺物語のオペラ、ぜひ観劇したいものです。



★修禅寺の紹介



(by: Wikipedia)


807年(大同2年)に空海が創建したと伝えられ、その後の約470年間は真言宗に属していた。



鎌倉時代初期に修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになった。
源頼朝の弟の源範頼と、頼朝の息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が当寺に幽閉され、
その後この地で殺害されたとしても知られている。



その後臨済宗に改める。



1361年康安(元年)の畠山国清と足利基氏の戦乱の被害を受け、
更に1409年(応永9年)の大火災で伽藍が全焼し、荒廃したが、



伊豆一国を収めた伊勢新九郎長氏(北条早雲)が、
の叔父の隆渓繁紹に曹洞宗の寺院として再興させた。



現在の本堂は1883年(明治16年)に再建したものである
2007年(平成19年)には開創1200年祭が行われた。



周辺は、修善寺のひなびた温泉街、1200年もの歴史を持つ寺
とマッチングして風情がある。