涼しくなってきてから庭にスズメバチが一匹、かなり気忙しげにうろうろと飛び回っているのを朝みかける。
うわーこわいと思うけど、まもなく新しい女王バチの誕生と僅かな雄バチの誕生を迎える季節、メスの働き蜂にとっての『死』の予兆、そして未来へ繋ぐ次世代の選ばれしモノの為に、必死に餌とりをしていることを私は物語で学んだ為に、どこか尊敬をもって網戸越しに眺めている。
『風の中のマリア』という百田尚樹さんの小説だった。スズメバチの働き蜂を主人公にした素晴らしい小説だった。
スズメバチは初期の頃、女王バチが産むのは全員働き蜂。すべてメス。働き蜂は次々産まれる次の働き蜂の為に狩りをして餌を与え、死んでゆく。
そして、寒さをみる前に、女王バチははじめて来期の女王バチを生み出し、そして、交尾のための僅かな雄バチを産む。
恋をすることもその肚になにかを宿すこともなく生きる働き蜂。
一度の交尾の為に、戦い死んでゆく雄。生き残った雄は交尾が終わると死んでゆく。
たった一度の愛の交わりにより孕んだ女王バチはたったひとり、寒さの季節に旅立たなければならない。
その肚に宿した次世代の為に、ひとり凍える季節を越冬する。無事に越冬できる女王はほんの一握り。。
春の陽光をみることが出来た女王は、ひとり、今度は家を造るのだ。。
物語を読みたいと思った。
スマホがあると、思考が恐ろしいほど短略されていく。それはそれでとてもいい面も両手を挙げて享受するけど、なんだかひどく『結論能』みたいになってしまい味気なくなった。
こうしたらこう。ああしたらこう。
あれは悪い!あいつはグズ!私ばっかり損してる!だからあいつを引き摺り下ろせ!
なんだか世の中が潜在的にそんな波動?になっているのは、『物語』が圧倒的に足りないからなんじゃないかと、そう思う。
物語とは、視点から結論へ至る間の空間の事をみせてくれるのだといつも思う。
そして、あらゆる人の(人でなくても)事情を知ることができる。
眼から鱗がはらはらと落ちる。
ああ。。私はなんて傲慢だったのだろうか。。
それを知る前にあらゆることを内心で裁いていた気持ちは、それを知った後、恥ずかしさで行き場を喪う。
そして、そのエゴや幼い正義の喪失は魂の快楽。
どんどん喪いたいと願う。
働き蜂は働き蜂として産まれたイノチに一生懸命。
雄バチは北斗の拳のように、ユリアを目指して命懸けで戦い、勝者は命懸けでユリアと愛の交わりを果たし、その身を捧げる。
ユリアは捧げられた愛を護るために、独り、極寒の地へ保証のない旅にでなければならない。
生きて春の陽射しの祝福をうけたユリアは、今度は土建屋になる。たった独りで。。
えー!なんでわたしが働き蜂なのよー!
わたし、下の子の面倒なんかみるの嫌やし、私も女王になって、男を手玉にとる暮らしがしたいわー!
オレ?戦うのとかマジカンベンして?何のためにそんなコスパ悪いことしないといけないん?
つか、めんどくせー?
女王だけどさ、子供産むのとか嫌やねん。
働き蜂とか、シングルでうらやましいわー私も独身生活エンジョイしたかったわー
これは政治のせい、不景気のせいやで。自分以外のすべてのせいやで!!
物語とは、私にとって人の痛みや哀しみや成り立ち、つまり想像力を得ることができる、魂のサプリメントみたいなもの。
不足すると誤作動を起こす。。
