『二、三日たって、父は長崎から真っ黒になって戻ってくると、
私にバケツ一つ持たせて佐世保駅に向かいました。
列車の中は、被爆なさった方々でいっぱい。
「水、水」と叫んでおられました。
血と泥とで膨れ上がった顔。
バケツにくんできた水を両手ですくって口の中に差し上げながら、
わき出てくる恐怖の中で
ありったけの力で水を差し上げ、
自分のブラウスでその方々の顔の血をふいていました。
血の赤と泥とで、染まっちゃったような、時間の中。
今でも熱があるとき、浮かんでくるのは、
あのときの、あの方々の顔です。
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十二年たって、吉行淳之介さんを好きになり、
初めて連れていってもらった二人の旅行は長崎でした。
何故、長崎なのかな。
私はうれしかったので、どこでもよかったのですけど、
彼が連れて行ったのは、長崎医大の跡、三菱の工場跡。
その場にたったとき、声ではなく、彼が
「オイ、佐賀!久保!」
と呼んだような気がしました。
それほど、もう何度も佐賀さん、久保さんというお友達の名前は聞いていたのです。
「僕の静岡高等学校時代の友人。
一番仲の良かった才能のあるやつだった。
僕はからだが弱くて、一年留年して東大にいったけど、
佐賀と久保は、長崎医大へ行って、すぐここにきて被爆した。
惜しいな、悔しいな、
二人が机を並べている影が見える気がする。
君を連れてきたかったところだよ」
私は黙って淳之介さんをみていました。
私は彼女を友達へ紹介しているような、
学生のときのような、
自分が幸せなとき、友達はここで一瞬で亡くなった悔しさと申し訳なさで………
もう、私の力では書けません。
とにかく、幸せの隣には、悲しさが……
やさしくありたいと思いました。
父は白血病でなくなりました。
『約束』より。
宮城まり子さん。。