「ちょっとまってください、表にだれか。」
「亨が立っているのです。
まだ何も聞いてないのですが、
1時ごろ、東京の世田谷を出たそうです。」
「ちょっと代わって。」
亨が出た。私は叱るまいと思っていた。
そっと言った。
「お帰り。よく帰れたね。
住所もってたの?」
「いいや、静岡のねむの木学園ときいたよ。
なんべんも、なんべんも。」
「亨ちゃん、えらいね。
でもなぜ帰ってきたの?」
「うん、同じ部屋の人とケンカして帰ってきたよ。」
「けんかいけないじゃない。」
「うん、いけないね。まりこさん、
あのね、僕、まり子さんとお兄さんと話したいよ。
あのね、僕、テレビに出たいんだ。」
「テレビでなにするの。」
「歌うたうの。」
「ふん、そうか、テレビに出てうたうの、どんな歌?
きかせて、イチ、ニイ、サン、ハイ。」
電話の前で歌う亨。。
私は、その歌をうたうことで、
その歌のようすで電話での亨の精神状態が知りたくて、うたわせた。
歌が聞きたくてではない。
どんな状態か知りたかったからだ。
………
私は、受話器から流れてくる亨の歌声を聞きながら、
顔がゆがみ、涙があふれてきた。
亨は相当興奮して、躁状態にある。
早く、寝かせなくちゃ。
そして、立派な教育をしてくださる、あちらの園長さんに悪くて亨にいった。
「亨ちゃん、ほんとうのこと言っていい?
私ね、歌聞いたけど、
亨ちゃんは、歌より仕事のほうがいいみたい。
また仕事やろうよ。
そして、お金ためて私になにか買ってよ。」
「うん、まり子さんになにか買ってやろうかナ。」
「ハンドバッグがいいナ。」
「イクラくらいの。」
「うん。千円くらい。」
「よし、じゃ、働かなくちゃいけないな。」
「そうしなさいよ。私、そのかわり来月東京に帰ったら、亨のとこ行くね。
だから、すぐにお姉さんにつくってもらってなにか食べて寝なさい。
今日はなに食べたの?」
………
指導員に言った。
「今、聞いたとおりよ。
相当、躁状態ね」
「え、あんなのはじめてです。」
「うん、お薬をのんでいないようなら、発作がこわいから、
持っているかどうか、調べて。」
とにかく、五円玉2つと十円がわからない亨が
東京の世田谷からきたのだから、興奮しているのがあたりまえ。
東京の世田谷の奥から、たったひとりで、何人に聞いたのであろう。
「静岡のねむの木学園はどこ?」
「静岡のねむの木学園は?」
何人に断られたろう。。
何人に「知らないよ」と言われただろう。。
何人に笑われたであろう。。
…………
右手の悪い亨は、右肩が上がり、少しからだがゆがむ。
その肩の下がり具合に、ぺ-ソスが漂って、
十八番の「禁じられた遊び」を弾く亨が悲しかった。
聖書の中にある放蕩息子のことを思い出した。
私たちだけの力いっぱいの拍手をうけて、
亨は、うれしそうだった。
………
悲しいときは、相談してね、亨。
ここは、亨がいつでもきていい場所よ。
たどたどしいギター、
たどたどしいオルガン、
どうかうまくならなくてもいいから、
彼をなぐさめてほしい。
私より背の高い亨は
お母さんに連れられて東京に行った。
『ねむの木の子どもたち』より。
宮城まり子さん。。

*本日のあじさい
親指姫のような小さな花の中のお花♪