7「長く暗いトンネル」
*ティッピング・ポイント*
外来は、古いジャズレコードのB面を繰り返し聴くような、単調なデジャヴュの連続だった。誰かが深夜、患者たちのカルテを、まるでトランプをシャッフルして入れ替えたのでは、と疑うくらい、「膝、腰、肩」が繰り返される。清流は、決まって痛み止めの処方を断り、リハビリ通院を卒業させ、湿布は効果のないお守りと言い切った。
「運動、それは身体のさび落としです」
「筋トレとストレッチ、これは身体の慣らし運転です」
「杖や押し車は、ダサいアクセサリーではなく、『転ばぬ先の杖』、予期せぬ雨に備えるレインコートです」
「無理すれば痛みがでる、これは神様からのイエローカード。作業は、小分けにしましょう」
整形外科医から発せられる馴染みのない言葉は、まるで外国ラジオを聞くような、不可解で暗号めいていた。彼らがこれまで信じてきた「治療」という名の古い儀式を、突然現れた外国人に否定されたかのように、患者たちの顔に困惑が拡がるのを肌で感じていた。清流は夜、目が覚めるたびに、「本当に、これを続けていいのか?」と、自分自身に問いかける。確信という名の夏の陽光と、不安という名の冬の夜風が、彼の頭の中でぐるぐると回り続けている。
そんな、時間の流れがまったりと流れ続けていた頃、突如、変化は静かに、そして決定的に始まった。それは眠っていた古時計が、突然、正確な時を刻み始めるかのような、地味で確実な瞬間だった。
「清流先生、以前言われたあの運動、真面目にやったら、膝の痛みが次第に引いていきました」
「腰の痛みは、ほとんど消えました。もちろん、時々、痛いときはあるけど、先生から聞いたアドバイスを参考に、工夫して過ごしています」
「首の痛み、良くなりました。上を向く作業も一生懸命しないように、気をつけています」
薬や注射、湿布という名の、もう効力のない古いおまじないに頼らなくても、痛みは改善する。そんな患者さんからの小レポートを、自分の脳裏に少しずつ刻む作業を行っていく。しかし、誰もが納得する真理はまだ得ていない。だが、清流がやっていることは、少なくとも何も間違ってはいない。その確信は、部屋に静かに広がる暖炉の温かみのように、清流の心を温め始めた。
ティッピング・ポイント。それは、「あるアイディアや流行、もしくは社会的行動が、敷居を越えて一気に流れ出し、野火のように広がる劇的な瞬間」。
その瞬間は、もうすぐそこまで来ている。
「このまま進むしかない。時間はかかるかもしれない。だが、まともなことを、普通にやっていこう」清流は、心の中で、その言葉を深く刻み込んだ。
*いわゆる、口コミ*
「清流副院長、肩が痛くて上がらない新患の方が、先生の診察を希望されています」
今までは院長の患者がほとんどだったが、ここ最近は、初めて病院を受診する新患が増えてきた。しかも、清流が診た患者さんからの紹介という、いわゆる口コミが受診のきっかけだ。SNSの顔の見えない冷たい文字の羅列とは違い、昔ながらの口コミは信頼の匂いがする。だから、良くも悪くも強く持続する。
診察室で、新患の田川さんに清流は言った。
「田川さん、両手をゆっくり挙げてみてください」
「ここまで上げると、左肩は痛くて無理です」
清流は冷静に受け止める。
「では、私のほうに背中を向けて、いい姿勢で、手をだらんと垂らしてください」。
清流は田川さんの後ろから、左手で田川さんの右肩甲骨を鷲掴みする。そして、右手で田川さんの右腕を持ち、ゆっくりと持ち上げる。
「田川さん、右肩は肩甲骨と腕の骨がスムーズに連動していますね」。
次に、左肩。今度は右手で左肩甲骨を鷲掴みし、左手で左腕をゆっくり持ち上げる。本来、腕が上がると肩甲骨も連動して動き始めるものだ。だが、この肩甲骨は、まるで錆びた歯車のようにピクリとも動かない。そのうち、田川さんから悲鳴が漏れた。
「先生、それ以上は痛いです」。
「田川さん、五十肩ですね」
「先生、私、71ですけど」
「若返りましたね」
田川さんは「いえいえ」と言いながらも、どこか嬉しそうだ。軽い冗談も、今や整形外科の診察室に必須なスパイスになっている。
撮り終えたレントゲンを見ながら、清流はゆっくりと説明を始めた。
「肩は、二つの関節で動いているんです。肩甲骨と腕の関節の『肩甲上腕関節』。そして、背中と肩甲骨の関節の『胸郭肩甲関節』。この二つの関節で、計180度動くんです」
清流は、診察室にあるプラスチック製の肩モデルを指差す。
「肩甲上腕関節が120度、胸郭肩甲関節が60度。この二つの関節は『2対1』の割合で連動します。片方が40度動けば、もう片方は20度。」
田川さんは、まるで初めて微分・積分の授業を聞く高校生のように、ただただ黙って集中して聞いている。
「田川さんの場合、肩甲上腕関節が60度動いても、胸郭肩甲関節は10度しか動いていません。肩甲骨が背中に張り付いているから、すべての運動が肩甲上腕関節に集中してるんです。だから、そこの筋肉やスジが、過労で悲鳴を上げているんです」
「先生、なぜ、肩甲骨が張り付くんですか?」
「一番大きな原因は、日ごろの姿勢です。田川さんの姿勢を見ていると、ちょっと猫背気味でしょ。背中を丸めた姿勢だと、肩甲骨が外側に移動して背中に張り付くんです。それと、趣味のパッチワークもかなり影響しています」
パッチワーク。楽しいはずの趣味が、思わぬ伏線になる。人生とは、そういうものかもしれない。
「パッチワークはダメですか?」
「楽しいことをするな、とは言ってません。一生懸命になりすぎないこと。途中、休みながら、姿勢を正す。そして、この『肩甲骨ストレッチ』を毎日しっかり行ってください、いい姿勢でね」
清流は田川さんと一緒に、パンフレットを見ながら、ストレッチの方法を指導した。
*化学反応*
一日の診察が終わる頃、中堅の看護師である隅乃さんが、必ず清流に話しかけてくる。隅乃さんは、いわゆるおしゃべりだが、外来のムードメーカーで貴重な存在だ。
「私、以前、市内の栗林整形外科で働いていたんです。清流先生の説明をそばで聞いていると、なんだか毎回『目から鱗』が落ちるんです。他の先生のことを悪く言いたくはないけれど、以前勤めていた整形外科は、それぞれ病名は違うのに、痛み止めの注射、ヒアルロン酸の関節注射、リハビリ通院、痛み止めと湿布の処方と、治療行為がすべて同じで、これなら私でもできるって思っていました」
清流は、肩をすくめた。
「整形外科の医師って、他科の医師からバカにされてるんですよ。まあ、血を浴びながら力業で骨を接いで、痛いって言われたら痛み止めや湿布出して、希望も聞かずにリハビリに通わす。傍から見ると、頭を通さず根性だけで仕事してるように見えるからかもしれませんね」
「先生の診察を受けた患者さんはもちろん、私たち看護師も、相当のカルチャーショックなんです。よくよく考えれば『そりゃあ、そうだ』って思うことに、何で今まで気づかなかったんだろう、って」
少しずつ、周囲に変化が生じてきた。それは、化学反応のようなものだ。清流という「触媒」が、確実にこの病院全体に“変化”という化学変化を促進させている。もちろん、清流一人だけが、孤軍奮闘しているわけではない。異議を唱えることなく、その奇妙な診察、いや新興の宗教活動を、自分を信用して見守ってくれた院長、そして、それをサポートしてくれているスタッフたち。
化学反応は、始まったばかりだ。しかし、この反応は、もう止まらない。そういう予感が、清流にはあった。今までの厚い雲に覆われ小雪が舞う景色ではなく、快晴の風のない日に湖畔に佇む感覚。そして、彼は、少しだけ、スモーキーなウィスキーが飲みたくなった。
次回の「忘れられたカルテ 8~ 整形内科医 芥川清流の挑戦」は “腰のヘルニア” です。