26 「 いよいよ医師へ 」
医師になるためには、もちろん国家試験という大きな関門を通り抜けなければならない。だが、その前には最低6度の進級試験と卒業試験が、寺院表門にある阿形と吽形のように、冷ややかに立ちはだかっている。最近では、誰が考えついたのか、さらに2つの全国統一試験まで加わったらしい。とはいえ、当たり前のことを当たり前にこなしていれば、道は自然と開ける。要するに、やるか、やらないか、それだけのことだ。
清流が通った国立大学は、基本的に学生を放任していた。知恵のついた羊を荒野に放つようなものだ。しかし私立大学のシステムはもっと現実的で、容赦がない。5年生にもなれば、まるで受験予備校のような国家試験対策が始まる。だから彼らは、国立大学の学生が夏休みで羽を伸ばしているときも、授業や試験を受け続けなければならない。彼らの部活の練習時間が限られているのは、哀れだが仕方のない事実だった。
清流が所属したバドミントン部のキャプテンは、要領の塊で生まれてきたような男だった。2年、3年、4年と進級するたびに、彼の周りには再試の嵐が吹き荒れた。誰もが「あいつは今度こそ留年だ」と囁き合っていた。当然だ。試験期間中だというのに、彼は体育館でラケットを振り回し、気持ちのいい汗を流していたのだから。しかし、再試の通知が掲示板に張り出された瞬間に、彼の内部で何かのスイッチが切り替わる。彼は驚異的な集中力を発揮し、いつもギリギリのところで踏みとどまった。
彼は奨学金を受け取っていた。夏になると、成績の芳しくない学生の元には育英会から警告の手紙が届く。
「あなたが勉強に励んでいることは疑いませんが、結果が少しばかり伴っていないようです。このままでは支給を打ち切ることも検討せざるを得ません」
といった、いかにも官僚的な文面だ。
2年の夏と3年の夏、彼はその封筒が郵便受けに届いたとき、何気なく封を切り内容を読み、すぐにクシャクシャに丸めてゴミ箱に放り込んだ。そして4年目の夏になると、彼はもはや開封することさえしなかった。手紙は未開封のままゴミ箱へと直行した。
4年生から5年生への進級には、「病理学」という名の巨大な壁がそびえ立っていた。それまでに経験したことのない、膨大な暗記のジャングルだ。
「さすがに、今度ばかりは彼も留年だろう」
周囲はそう噂した。しかし、彼はバドミントン部のキャプテンに就任したばかりで、その責任感が彼を変えたのか、その年の彼は、いつもとは違う奇妙に研ぎ澄まされた静けさをまとっていた。
再試発表の日、大講堂の前に張り出された名簿のどこにも、彼の名前はなかった。彼は医学部最大の進級試験で、その最も険しい山を、まるで平地を散歩するかのように容易く通り過ぎてしまったのだ。
* 国家試験 *
5年から6年への進級は、静かな湖水を渡るように平穏だった。しかし、その先には本物の怪物が待っていた。国家試験だ。
清流は気の合う仲間を見つけて小さな互助会である勉強会を作った。要領のいいバドミントン部のキャプテン、テニス部のキャプテン、サッカー部のキャプテン、吹奏楽部の部長、そして清流。週に2、3回、清流たちはそれぞれ解説付きのレジュメを作り、他のメンバーの前で講義をした。
5年の夏、学生の大半は、特に女子はほぼ全員が部活を引退し、図書館の机にしがみつく。しかし、清流たちのグループは全員、6年の夏まで現役を続けた。夕方までコートで体を動かし、それから勉強会を始めるのだから、数時間もすれば全員の脳細胞は完全に沈黙した。
“6年の12月までに過去問を最低2周”
それが暗黙のルールだったが、清流たちのチームは12月になっても、ようやく1周目を終えれるか微妙なところだった。他のグループは清流たちを見て、「あのグループは全滅だな」と、気の毒そうな目で見つめていた。
6年の夏休み。医学生最大のスポーツ大会を控えた清流とバドミントン部の元キャプテンは、じりじりと照りつける太陽の下、ランニングに励んでいた。そこへ、前年の夏に部活を引退し、すでに過去問を1周完璧に終えたバドミントン部の元女子キャプテンが通りかかった。彼女は清流たちを見て、呆れたように、しかし哀れむようにこう言った。
「ねえ、あなたたち、今は筋肉を鍛えている場合じゃないのよ、頭を鍛えなきゃ」
清流と元キャプテンは、アスファルトの上でただ苦笑いするしかなかった。だがその時、清流たちの胸の奥に、冷たい針のような「やばいかもしれない」という焦燥感が、静かに突き刺さったのも事実だった。
* キスポイ *
清流とバドミントン部のキャプテンは、どういうわけか波長が合った。清流たちはよく、車を走らせて海へ釣りに出かけた。
冬の釣りはとても寒く、清流たちは防波堤の上に七輪を置き、アルミ鍋のうどんをすすって身体を温めた。アタリがないので場所を移動しようということになり、まだ熱い七輪を車の後部座席に放り込み移動を繰り返し、様子を見に堤防へ歩いた。数分後、車に戻ってドアを開けると、車内からモクモクと濃い灰色の煙が噴き出してきた。危うくキャプテンの車をただの鉄くずにするところだった。
夏の暑い日には、汽水湖に続く川へスズキを狙いに行った。キャプテンの竿が大きくしなり、竿のしなり具合からかなりの大物のようだったが、魚特有のピチピチとした生命の振動が伝わってこない。
「それ、靴底じゃない?」
清流は少しのジェラシーを込めて、そう冗談を言った。しかし、彼が水面から引き揚げたのは、「長靴」だった。清流は自分の予言の正確さに少しだけ恐怖を感じた。
ある夏、海岸でキス釣りをしたら、面白いようにキスが釣れ続けた。
「なあ、俺たちは今日、この海岸にいるすべてのキスを絶滅させてしまったんじゃないか」
バケツに溢れる魚影を見ながら、清流たちは少しばかりの罪悪感を抱いた。流木を集めて小さな火を起こし、アルミ鍋うどんを食べ終えた割り箸にキスを刺し、海水の塩分で焼いた。シンプルだが、信じられないほど美味しかった。以来、その秘密の場所は、清流たちの間で「キスポイ(キス・ポイント)」と命名され、他の誰にも明かされることはなかった。
そのキスポイで、清流たちが尺ギス(30センチを超える大物)を狙っていたときのことだ。波間に、白黒の縞模様の物体が漂っているのが見えた。近づいてみると、それは弱った石鯛だった。60センチは下らない巨体だ。興奮した清流たちは、繊細なキスの仕掛けをその石鯛の身体に絡ませ、ゆっくりと慎重に浅瀬へと引きずり込んで捕獲した。
「この奇跡を、形に残そう」
帰りの車中でそう意見が一致し、清流たちは地元の釣具店にその獲物を持ち込んだ。そして、お馴染みの釣り雑誌に投稿してもらうため、写真を撮ってもらった。
二人の挙動が不審だったのか、釣具店の主人は鋭い目つきで清流たちを問い詰めた。
「場所はどこ? ハリスの太さは? エサは何?」
石鯛をキスの仕掛けで、しかも弱って浮いていたものを「拾った」などと言えるはずもない。清流たちの辻褄の合わない言い訳に、主人の表情には疑惑の影が差していたが、清流たちはなんとかその場を煙に巻いた。
数週間後、釣り雑誌の片隅に清流たちと石鯛の写真が掲載された。清流たちは冷えたビールで乾杯すると同時に、他言無用であることを再確認した。
* 国家試験3か月前 *
年が明け、6年生の1月。国家試験までは3か月を切っていた。1月4日の朝、彼から電話がかかってきた。
「実家に帰ったらさ、お小遣いをもらったんだ。それでちょっと高い投げ竿を買ったから、釣りに行かない?」
大学受験の12月と年明け1月では急に雰囲気が変わるように、さすがに国試がすぐ後ろ3か月まで迫ってきていることに恐怖を感じ始めたから、清流は首を振った。
「いや、悪いけどパスするよ。さすがに国試が目の前だからね」
電話を切った後、清流は思った。いくら彼でも、この期に及んで釣りに行くようでは、今度こそ不合格の通知を受け取ることになるだろう、と。後日、風の噂で彼が一人で海へ行ったことを知った。彼は堤防の上で足を踏み外し、テトラポットの隙間に落下したのだ。脛を深く切り、大学の救急外来で何針も縫う大怪我を負った。しかし彼が悔やんでいたのは、自分の肉体の損傷ではなく、テトラポットの暗闇に消えていった新しい投げ竿のことだった。清流はそれを聞いて、ただ深くため息をつくしかなかった。
* 卒業旅行 *
あっけなく国家試験は終わった。試験の数日後には非公式の解答速報が出回り、自己採点の結果、清流のグループ全員の合格はほぼ確実なものとなった。清流たちは、これまで抑圧されていたすべてのエネルギーを解放するために近くのキャンプ場を予約した。そこで、元テニス部キャプテンが実家から持ち帰った大量のビール券で瓶ビール2ダースを調達し、キャンプ場でプロ野球優勝祝賀会よろしく「ビールかけ」を執り行った。3月中旬の空気はまだ十分に冷たく、自然に冷えたビールは清流たちの体温を容赦なく奪った。凍える手から何本ものビール瓶が滑り落ち、地面で砕け散った。翌朝、清流たちはひどい二日酔いの中で割れたガラスの破片を片付けたが、そこに元テニス部キャプテンの姿がないことに気づいた。
「彼は昨日、アルコール中毒で救急搬送されたよ」と誰かが言った。
自宅に戻ると、清流の身体は激しい熱に見舞われ、3、4日の間、ベッドの中で終わったばかりの国試を再受験する悪夢を見て過ごした。
しかし、数日後には沖縄への卒業旅行の予定が入っていて、まだ微熱が残る身体を引きずり、隣県の空港へと向かった。だが、空港に着いてから気づいたのは、清流が乗るべき沖縄便はこの空港発ではなく、都市の反対側にある別の空港から出るのだと。
清流はタクシーに飛び乗り、運転手に告げた。
「どのくらいかかりますか?」
「うーん、一万円ぐらいかな」
「すみません、財布に手持ちがないので、この学生証を担保に預けます。後で必ず振り込みますから、急いでいただけますか」
何とか空港にたどり着き、タクシー運転手にしっかりとお礼を言い、泥のようにだるい身体を抱え、滑り込みで飛行機に乗り込んだ。そして、機内ではただ泥のように眠った。
沖縄の地に降り立つと、南国の湿った風のせいか、少しだけ体調が戻ったような気がした。宿には、すでにバドミントン部の元キャプテンも、あのアルコール中毒から奇跡的な復活を遂げたテニス部の元キャプテンも到着していた。聞けば、バドミントン部の元キャプテンも、あの冷たいビールかけのせいで酷い風邪をひいていたらしい。清流たちは、性懲りもなくあのビールで乾杯しながら、互いの愚かさを笑い合った。
清流たちは那覇から石垣島へ渡り、カヌーを借りて川を上っていった。そこにある世界は輝きに満ちていた。スーパーで買った鯖の切り身を針にかけ川に投げ入れると、すぐに竿が大きく動き、危うく川に落としそうになった。40㎝のクロダイが面白いように釣れた。しかし、楽しさがピークに達したその時、今度はテニス部の元キャプテンが突然の発熱で倒れた。そして、彼の残りの卒業旅行は、ホテルのシングルルームで天井を見つめるだけの療養生活へと変わった。
沖縄を満喫した後、清流たちは、東京へ飛んだ。テニス部の元キャプテンは最終日になんとか復活していた。空港では、バドミントン部の元キャプテンの父親が清流たちを出迎えてくれた。父親は清流たちを高級なレストランに連れて行き、見たこともないような美味しい料理をご馳走してくれた。そして二次会には、銀座の重厚な扉の向こうにある高級クラブのソファに清流たちを座らせてくれた。
学生生活最後の1ページが、ゆっくりと閉じようとしていた。あとはただただ、国家試験の正式な合格発表を待つだけだ。振り返ってみれば、清流の学生生活は、信じられないほど長く、一方であっけなく終わった。そのことに対する奇妙な寂しさと、これ以上ないほどに時間を使い果たしたという確かな充足感が、清流の胸の中で静かにせめぎ合っていた。今、清流の前には「医師」という新しい生きる道が伸びている。清流は引っ越しの準備をしながらアルバムを開き、これまで歩んできた長く曲がりくねった道のりを、もう一度だけ、静かに振り返ってみた。
風は、もう春の匂いを運んでいた。いよいよ、医者になるのだ。
「忘れられたカルテ 整形内科医 芥川清流の挑戦」は、次回、最終話を迎えます。
その後は新シリーズ「整形外科 いた~い寓話」が始まります。