18「 腰部脊柱管狭窄症 


* 間欠性跛行 *

雨の日の高速道路。フロントガラスを叩く雨粒を払うためにワイパーを動かす。その一定のリズム――「間欠モード」の周期が巡るたび、清流は “間欠性跛行” という医療用語を思い出す。

「清流先生、」

光田さんは真っ黒に日焼けした、75歳のゴルフを愛してやまない男性だ。

500メートルほど歩くと、ふくらはぎが硬くなって、一歩も動けなくなるんよ」

「光田さん、それは『間欠性跛行(かんけつせいはこう)』という現象です」と清流は答え、すかさず「ところで、自転車には乗りますか?」と質問した。

「ええ、不思議なことに、自転車ならどこまででも行けるよ。不思議よね」

清流は、光田さんを診察台に座らせ、ハンマーを手に、膝の皿の下とアキレス腱を叩いた。

膝を叩くと、ほらスネが動くでしょ。これは4番目の腰神経は大丈夫というサインです。次はアキレス腱、ほら足首が動かないでしょ。これは6番目の腰神経にトラブルがある証拠です。いいですか、光田さん。第5腰椎と仙骨の間にある椎間板が傷んで、神経の通り道に迫り出しているんです。ゴルフのグリーンで例えるなら、カップの縁が盛り上がって、ボールが中に入りにくい状態です」

光田さんは、清流の軽口をさらっと受け流す。

「脊柱管狭窄症……?」と、光田さんは清流の反応を探っている。

「ネットや雑誌みると、わしの症状は腰部脊柱管狭窄症とあったが」

最近はネットにいろいろな情報が氾濫しているし、雑誌でも何度も何度も特集が組まれている。ただ、“論より証拠”で、実際に診察して診断を受けることが一番重要だ。

「光田さん、腰部脊柱管狭窄症の診断には、途中歩けなくなる“間欠性跛行”も大事ですが、他の疾患と区別することがもっと重要なので、腰のMRI検査と脚の血流検査を行いますね」

脊柱管狭窄症は 間欠性跛行しばらく歩くと下肢シビレ感が出現し歩けなくなり、しゃがむとよくなる)が有名で、その症状だけで腰部脊柱管狭窄症と診断されることが多い。しかし、腰部脊柱管狭窄症、下肢動脈が詰まる閉塞性動脈硬化症、腰下肢の筋力が弱るサルコペニアは、似たような症状を示し、鑑別が非常に困難だ。

 

* 論より証拠 *

「これが光田さんの腰のMRIです。これがお尻の骨、仙骨で、これが5番目の腰の骨です。ここの椎間板が潰れて、ほら、腰の管の中に出てるでしょ。上から降りてくる6番目の腰の神経がこの狭いところで圧迫されるから、アキレス腱を叩いても反射が出ないし、歩くとふくらはぎが突っ張るんです」

清流はモニターに映し出された白と黒のグラデーションを指差し、狭いトンネルの中で窮屈そうに流れる神経をなぞった。

「なぜ歩くときだけ症状が出るのか、不思議だと思いませんか?」

「ええ、まさにそれを聞きたかった」と光田さんは身を乗り出した。

「腰の管は、蛇腹のような仕組みになっています。胸を張って『よし、歩くぞ』と背筋を伸ばすと、管は狭くなるんです。逆に、前屈みになったり、腰を下ろしたりすると、管に余裕が生まれます。つまり、堂々と威張って歩こうとすると体は悲鳴を上げ、自信なさげに背を丸めると痛みは遠ざかる。皮肉なものですね」

光田さんは、今度は小さく笑った。

「わしは、ゴルフが趣味なんじゃが、坂を上がるときは突っ張らんが、坂を下るときはすぐに突っ張るんだが、これはなぜかな?」

「鋭い観察力ですね。坂を上がるときは、前かがみでしょ。坂を下るときは、身体を反らすでしょ。さっき説明した“蛇腹の話”と同じです」

「なるほど」

光田さんは、説明中に“坂を上がる”と言えば身体を上に、“坂を下る”と言えば身体を前のめりにして確かめている。

「ところで、光田さん、この脚の症状は急に出現したんですか? 症状が出る数日前に、何か作業などしてませんか?」

「ああ、町内会の仕事で、河川敷の草刈りをしたわ」

「それって、斜面を下りながらしてませんか?」

「そうそう、下りの斜面だね。あっ、そうか、下り坂じゃあ腰が反るのか?」

「反るだけでなく、左右に繰り返し捻りますよね。光田さんのMRI画像を見ると、狭窄の程度と光田さんの症状がマッチしないんです。あまり狭窄が強くないのに、急に症状が出るパターンは、悪化させるきっかけがあるんです。それと、“捻り”は人間という構造体が最も不得意とする動きなんです

「じゃあ、あの『リマ……リマなんとか』という特効薬を飲めば治るんか?」

「リマプロストですね。私も、腰部脊柱管狭窄症と聞けば、反射的にリマプロストを出していました。これ、6週飲まないと効果が出ないって言われてますけど、自分の経験では、6週間ゆっくり過ごせば薬を飲まなくても症状が消えることが分かってきたので、最近は出していません。この6週間は人間が持つ、“自然治癒効果”の期間と同じなんです。 これって、風邪を治すのに特効薬がなくても、1週間あれば自然に元気になるのと同じです。必要なのは、時間と安静と少しばかりの知恵です」

「もう、草刈りなんかしないほうがいいかな?」

「いえいえ、作業のやり方を変えればいいんです。一生懸命同じ作業を繰り返さないことが大事です。いろんな作業を織り交ぜて、休憩を入れながらすれば、悪化しませんよ」

「雑誌とかネット見てると、手術しないといけない雰囲気で、気分が落ち込んでたよ。清流先生の話を聞いたら、なんだかすっかりよくなった気がするね」

光田さんの顔から、重苦しい雲が消えていくのがわかった。

 

* 汎用医療製造機 *

1988年、日本の製薬メーカーが開発したリマプロストが市場に現れたとき、医師たちはその血流改善のプリモーションビデオに魅了された。それは一種の宗教に近い熱狂で、脊椎専門医の脳裏に焼き付いた。また製薬メーカーの脊椎専門医に対する接待攻勢は、相当なものった。その後、あっという間に脊椎専門医から整形外科医全体に、腰部脊柱管狭窄症=リマプロスト処方、効果が出るまで6週間というステレオタイプが拡大し、営業は大成功だった。それが、今では雑誌やネットを通して、一般人にも拡大したから質が悪い。動物実験や臨床研究のリマプロスト効果を否定するつもりはないがあまりにもリマプロストが多くの患者さんに投与されていることに清流は違和感を覚えている。

発売当初は脊椎外科医のみが処方する薬であったリマプロストは、発売から20年経過したころから、一般整形外科医だけでなく、内科や外科からも処方されるようになった。それにとどまらず、流行る整形外科クリニックを横目に見ていた内科や外科も、今ではリハビリを始め、整形外科医が処方する薬全般を処方するようになった。診療内容を真似される整形外科医は、負けじとさらに高額なリハビリ機器や、新しい痛み止めを我先に処方していく。すると、また内科や外科も同じ方法を模倣する。そのうちに、真似をされる側も真似をする側も、傍から見ればすべて同じ “汎用医療製造機” で、いつの間にか本来の医学というものを忘れている。それはまるで、巨大なショッピングセンターのフードコートのようだ。どこへ行っても同じ味のハンバーガーがあり、同じ制服の店員がいる。清潔で、効率的で、そしてひどく退屈だ。昔は、「あそこの先生の腕はいいが怖い」とか、「あそこの先生の口は悪いが、患者思い」とか、何か特徴があったものだが、みんな横並びで同じ診断、薬、リハビリを提供している。

 

* 邯鄲(かんたん)の歩み *

清流が気に入っている故事に、「邯鄲の歩み」がある。都会人の優雅な歩き方を真似ようとして、結局自分の歩き方まで忘れてしまい、地面を這って故郷に帰った若者の話だ。

現代の医療も、そんな「地面を這う若者」になりかけているのではないか。誰もが横並びで、平均値からはみ出さないように、副作用のない無難な「汎用医療」を積み上げていく。清流は痛み止めや湿布を出さないという、結果的にはある種「目立つ」医療を目指してはいるけれど、ふとした瞬間に周りと同じ歩き方をしそうになる自分に気づく。悪目立ちしたくないという臆病な心が、どこかで囁くのだ。自分はまだ、自分らしい歩き方を習得できていないのかもしれない。雨の中、間欠的に動くワイパーを見つめながら、清流はそんなことを考える。