* 骨の数だけ病名がある *
「清流先生、肘が痛い患者さんが来られています」
新生児の骨は350個。それがやがて融合し、成人では206個になる。関節は260個、筋肉は約640個、骨と骨をつなぐ靭帯に至っては、正確な数すら誰も知らない。痛い関節があれば、その数だけ病名が生まれる。整形外科の疾患数が診療科でトップなのは、おそらくそのせいだ。
医学部の解剖学試験。骨の名前をラテン語で述べる口頭試験の数週間前から、同級生たちは皆、まるで古い呪文を唱えるように「オス・××」「オス・○○」と呟いていた。同級生の女子が一生懸命暗唱している傍で、「オス・△△」「メス・□□」と茶化すのは、だいたい男子生徒と相場は決まっている。研修医時代、「標準整形外科」という、分厚い教科書を先輩医師に渡されたが、病気が多すぎるし見たこともない疾患ばかりで、頭にまるで入らなかった。「10年選手」、10年経てば一通りの疾患を経験し、一人立ちできるという整形外科用語がある。10年にも満たない自分にとっては、まるで近づいても遠のいていく虹の麓のようなもので、ある時、教科書を何度も目を通す方法から、目の前の疾患を丁寧に対処する方法に切り替えた。
「香川さん、肘のどこが痛みますか?」
「先生、ここです」と、彼女は肘の外側を指差した。清流は実際にその部位を押してみた。香川さんの顔は、一瞬、苦痛で歪んだ。
「何をすると痛みますか?」
「フライパンを持つのも痛いんです」
「畑仕事などをされますか?」
「小さい畑ですが、いろいろ作っています」
この段階で、清流の頭の中では、おおよその結論が広がっていた。肘の痛み、それはほぼ「テニス肘」の可能性が高い。
「香川さん、肘の関節はとてもきれいです。ということは、これは前腕の筋肉付着部の炎症、『テニス肘』です」
「先生、私、テニスはしないんですけど」
「一般的にテニス肘と言われていますが、正式名称は『上腕骨外側上顆炎』です。テニスのバックハンドで悪化したり、日常生活で重いものを持ったりすることで生じます。香川さんの場合は、畑仕事で鍬などを使うことで、手首を曲げ伸ばしする筋肉が疲れて硬くなることが原因です」
清流は、香川さんの手首から肘に向かう前腕の筋肉を押し、肘の外側にある筋肉の終着点をぐりぐりと圧迫した。
「この筋肉で手首を反らしますが、この筋肉が疲れて固くなると、今度は裏側にある手首を曲げる筋肉も疲れて硬くなります。その状態でまた手首を反らそうとすると、さらにこの筋肉が疲れて硬くなり、いわゆる悪循環となります」
香川さんは、なるほど、とうなずきながら、「注射で良くなりますか?」と尋ねた。
「香川さん、注射で痛みが取れても、それは一時的なものです。それよりも、原因となった庭作業を小分けにして、作業後はこのストレッチをしっかり行ってください」
清流は自作のパンフレットを渡し、ストレッチ指導した。それは、痛み止めやシップ、注射と違い、インパクトの少ない方法だが、実は最も確実な対処法だ。
* サポーター *
清流のテニス仲間は、ほとんど全員が何らかのサポーターを使っている。腰、膝、足首、肘。コーチはそれを「オプション」と呼んでいる。
「清流先生、そんな動きをしたら、オプションが増えますよ!」と、彼はいつも警告してくれる。
プロ選手なら、過酷なプレーでオプションが付くのは理解できる。しかし、アマチュアレベルでオプションが付くのは、フォームやフットワーク、あるいは筋力不足といった、もっと根本的な問題がメインだとコーチは囁く。
そもそも、サポーターの効果は限定的だ。骨折している腰にコルセットを巻いても、重力の影響までは消せないし、ぐらつきを抑制することなんて出来ない。せいぜい腰を動かしにくくして、筋肉の負担を軽減する効果はあるかもしれない。それ以上に、「自分は腰が悪い」という認識を植え付け、無理をしないように注意する効果は大いに期待できる。
香川さんが診察室から出た途端、看護師の隅乃さんが清流に尋ねてきた。
「私の主人もテニスをしていて、肘が痛いからと肘にバンドを巻いているんですが、あれって効果あるんですか?」
「かなり痛いの?」
「試合数が多いと、痛くなるみたいです。あちこちの整形に行って、注射や痛み止めでも良くならなくて」
「うーん、厳しい言い方をすると、今から長く楽しくテニスを続けようと思ったら、フォームを変えたほうがいいと思う。今、痛みがあるならそれを利用して、痛みがでない打ち方を選んでいけば、それがその人に合った一番いいフォームだと思うよ」
それは、自分にとって最適な「人生」を見つける生き方にも似ている。
「なるほど、伝えます。でも、頑固だから、私の言うことは聞かないんですよね」
隅乃さんはそう言って、静かに微笑んだ。
「肘のサポーターにはあまり意味はないけど、ご主人の最大のサポーターである隅乃さんの存在は大きいと思いますよ」
隅乃さんの頬がすこし赤く染まった。清流は我ながら“いいセリフ”だと、ちょっと嬉しくなった。
* ほろ苦い経験 *
実は、清流自身も肘の痛みを経験している。テニスではなく、庭作業が原因だ。自宅駐車場の雑草対策で、3か月かけて防草シートを張った。砂利をふるいにかけ、草を抜き、シートを張り、再び砂利を敷く。その作業で鍬やジョレンを使い、途中から肘が痛み始め、左右持ち替えながら作業を続けた。その期間、テニスでサーブを打つたび、また強烈なサーブを受けるたびに、肘に激痛が走った。テニスから帰ってからは、アイスノンで冷やし、ストレッチを繰り返した。そして、6か月かけて、やっと回復した。仕事柄、痛いとも言えず、肘サポーターを使うことも何だか悔しく、耐えに耐え抜いた半年間だった。だからこそ、患者さんの痛みは理解できる。そして、対処法は清流の体に深く刻み込まれている。何事も経験ではあるけれど、痛いことは、なるべくなら経験したくない。でも、経験したからには、それを自分の仕事に最大限利用するたくましさが、清流の中に身についた気がする。「転んでもただでは起きない」、これは清流お気に入りの言葉の一つだ。
次回の「忘れられたカルテ 12~ 整形内科医 芥川清流の挑戦」は “ 腰の骨を折る ” です。