[ミイラ取りがミイラに]


*晴天の霹靂*

大学時代は進級に必要な最低限の勉強と、バドミントンへの熱狂に時間を捧げた。しかし、医師になってから「運動器疾患を診る整形外科医が何も運動していないのは、まるで料理人が自分の創る料理の味見をしないようなものだ」と思い立ち、40歳手前でテニスを始めた。テニスにしたのは、学生時代のバドミントンへの熱狂が強すぎ燃え尽きたためと、テニスにはコーチという存在があったからだ。

いままで塾にも行ったことが無いため、誰かに物事を習う経験がなく、コーチという他人に物事を習うことがとても新鮮で妙に心地よかった。彼はたちまち正会員となり、レッスン後に同レベルの会員と試合で汗を流すようになった。回数を重ねるごとに打ち返せるショットが増え、あの錦織圭のように世界の舞台に立つ夢まで見そうな勢いだった。しかし、その夢は、あっけなく破られる。旅行先で妻に言われた不意打ちのドロップショットだった。

「右膝、腫れてない?」

清流は最初、何を言われたのか理解できなかった。関節のプロフェッショナルに対して、素人が膝の異変を指摘するとは。確かに右膝は腫れ、しゃがみにくい。おまけにインスタで有名な雨上がりの木製橋で、思いっきり躓いてこけてしまった。それはまるで神様が仕組んだコントのように、皮肉に満ちあふれていた。

休み明け、早速レントゲンとMRIを撮影した。結果は、膝内側の関節の隙間が狭くなり、骨棘という小さな骨ができていた。これは、軟骨とクッション材の半月板がすり減っている証拠だ。そしてMRIには、関節の中に水が溜まっている像が、まるで上高地の大正池のようにくっきりと示されていた。

清流は静かに呟いた。この状況で普通の整形外科医なら、例の「三点セット」をオーダーするだろう。しかし、同業者に関節注射を頼むのは、なんだか自分の負けを認める気がする。日常生活が送れる以上、何か他の解決策はないだろうか。患者を診ることには慣れていたが、まさか自分が患者になり、どうすればいいか、誰に相談すべきか不安になったことは、後にも先にもこの時だけだった。

 

*説明と理解*

「古田さん、これがあなたの膝のレントゲンです」

清流は、モニターに映る白黒のレントゲンを指差した。深いシワの奥にあるその眼光は、獲物を見定める鷹のようだった。

「これが、モモの骨、スネの骨、そしてお皿の骨です。この隙間に軟骨とクッション材の半月板があります。外側の隙間は広いけど、内側は狭いでしょ。これは軟骨がすり減って、半月板も無くなっている証拠ですよ。だから膝の内側、ココが痛くなるんです」

と、清流は自分の膝の内側を指さした。

古田さんは黙って頷いた。その沈黙は、「で、どうしてくれるのか?」という無言の圧力であり、まるで「次の手は?」と急かす将棋盤上の駒のようだった。

「手術、必要ですか?」

「この程度なら、手術は不要です」

「じゃあ、治療は?」

「モモの筋肉が弱いので、膝がグラグラして軟骨とクッション材がすり減るんです。だから、モモの筋トレと、筋肉がついて膝がしっかりするまで杖を使いましょう。杖は痛くない膝のほうにつきましょうね。12か月で、痛みは落ち着いてくるはずです」

古田さんの眼がわずかに揺れた。

「えっ、注射は? 膝に入れる、え~あれは?」

「ヒアルロン酸ですね。あの注射をするのは世界で日本だけなんです。あまり効果が無いって言われてます」

あれだけ世間で当たり前に行われている行為を否定することに抵抗はあるが、世間に流され注射するのにも抵抗がある。

「なら、痛み止めは?」

「痛みは、あなたの体から発せられた『このままじゃまずいぞ』というメッセージ、一種のSOSです。それを痛み止めで蓋をしたら、数年後にはより大きな悲鳴が返ってきます。だから、筋トレをして、杖をついて、痛みが来ないように生活するのが正解ですよ」

古田さんの鋭い眼は、一瞬にして焦点を失い、診察室内を落ち着きなく彷徨いはじめた。

「サポーターは?」

「あれは、気休めですよ。痛みの原因は解決されませんよ」

清流の頭の中で警鐘が鳴った。正論は時に、予想以上に強力な毒だ。古い政治家が、増税の必要性を訴える若い政治家を横目に、「減税だ」と叫び続ける。清流は、今、この古い政治家に立ち向かう、増税派の気分だった。

「余程痛む時は、頓服を使ってください。もちろん痛み止めは副作用も出ますから、なるべく少なめに」

「じゃあシップを出してくれますか?」

「シップなんて気休めですよ」と、言いたかったが、

「かぶれに注意してくださいね」

と、なんとかお茶を濁し、古田さんを送り出した。古田さんの背中は、聞いたことのない異国料理にそこそこのお金を払ったお客さんのように、もう二度とこの場所には来ないだろうという静かな諦めが漂っていた。

清流が椅子に深く沈み込んだ時、古株の看護師が顔を覗かせた。

「清流副院長、古田さん、『他の整形じゃ、ヒアルロン酸の注射をして、痛み止めを出してくれるのに』って、不満そうでしたよ」

やはりそうなるか。“まともなこと”とは、一体何なのだろう。清流は窓の外を見た。季節は夏が終わり、樹木が色づき始めた頃だが、清流の周りだけは、すぐにでも雪が降り出しそうな静寂に包まれていた。


次回の「忘れられたカルテ 4~ 整形内科医 芥川清流の挑戦」は “Try @ Error” です。