痛みのピットフォール


 私が医師になったころは、教科書に載った知識が優先される時代で、その後もEBM(Evidence Based Medicine)が優先されましたが、その後はNBM(Narrative Based Medicine)が重視され始めました。一方で大学病院では扱う疾患が高度で難しいものが多く、いまもEBM重視で、大学カンファレンスでは参考文献やガイドラインを参考に治療が進められます。一方でありふれた症状common diseaseを扱うクリニックは、EBMNBMなどではなく、今まで行われてきた治療や処方が踏襲され、いわゆるベルトコンベアー式で治療が進められますそのベルトコンベアー式で進む医療は、かつて一世を風靡した「クイズ・ドレミファドン!」のように、条件反射で診断名が付き、処方箋が発行され、リハビリが始まります。ですから、どの病院やクリニックに行っても、同じ病名と同じ薬、同じリハビリが提供され、3カ月もすれば人間が持つ“自然治癒能力で症状は軽快し、原因が解決されぬまま診療が中止または終了し、次の病期ステージに進みます。

戦前戦後に活躍した物理学者・中谷宇吉郎は、名著「科学の方法」冒頭で、「すべての自然現象が科学で解決できるわけでなく、科学が扱えることには限界がある」と述べています。医学でも同様で「すべての病気が医学的に解決できるわけでなく、医学が扱えることには限界がある」と考えます。また中谷は、「ある人がある問題について得た知識が、今まで我々の知っていたはずの他の知識に当てはめてみたときに、従来の認識との間に矛盾が無ければ信用できる」としています。同様に新たな患者の診断治療結果、今までの診断と治療経験にあてはめて矛盾が無ければ、その診断と治療は信用することができると考えられます。私はこの作業を通じて、整形外科領域のcommon diseaseをcritical thinkingで考え直し本ブログで発信しています。しかしこの一連のプロセスにピットフォールが存在します。それは痛みには「心身症(心因性疼痛障害)が影響する場合があり、だれもがその落とし穴に落ちる可能性があるのです。

心身症とは精神的に健康な社会人にストレスや生活様式の悪影響などが原因となり、さらに各人の体質が絡み合って、さまざま身体症状が引き起こされるケースです。心身症の診断は容易ではなく、まずは血液検査、画像検査などで器質的疾患臓器そのものに炎症や癌などがあり、その結果として様々な症状が出現する病気や病態のことを否定し、場合によっては投薬による診断的治療(特定の疾患を想定して治療を行うこと)で症状改善が無ければ、最後に心身症の診断を下します。

心と身体は密接にかかわっており、心身相関と言われています。内科分野でいえば、腸脳相関で、腸は「第二の脳」とも呼ばれる独自の神経ネットワークを持っており、脳からの指令が無くても独立して活動可能で、生物にとって重要な器官である脳と腸がお互いに密接に影響を及ぼしあいます。

体、感覚、感情、思考、行動、環境などの諸要因が複雑に絡み合っているためこの心身相関が狂うと相互に影響を及ぼ“病的なホメオスタシス”状態となり、病状は複雑怪奇診断が困難を極めます。症状が変化する日内変動や、異常に激しい症状が出たり出なかったりは、心因性だからこそです。

夏樹静子の「腰痛放浪記 椅子がこわい」には、作家本人の経験が詳細に記載されており、腰痛の教科書よりも手に取るように病状が理解できます。作家だからこそ、「人間の中には自分の知らない自分が潜んでいて、その自分(潜在意識)が人間全体を支配することもある」という表現が可能で、真理をついています。

心因性疼痛障害に関しては、また各論で対処法を述べていきます。


コラム

自身の年齢が上がるにつれ、日常生活だけでなく、医療においても“塩梅”を考えるようになりました。最近は少なくなりましたが、10年前までは延命治療が当たり前で、回復の見込みもないのに過剰な医療で何年もかけてゆっくりと衰弱する患者さんを見医療者も家族も複雑な思いを抱いていました。しかし近年は回復困難な状態で延命治療を行うかを聞かれ、本人家族の意見を反映できる時代になりました。一方、整形外科分野では医療技術と周術期の麻酔管理能力向上、90歳代でも人工関節や脊椎の手術を行えるようになりました。しかし中には手術合併症を引き起こし、結局寝たきりや認知症が悪化し、手術のメリットを享受できない症例も散見されます。医師が各患者の生き方を決めることはあってはなりませが、いろいろな症例を見てきた専門家、先達として、いい“塩梅”の治療について提案することも重要ではないでしょうか。医療訴訟を恐れて、ガイドラインに沿ったステレオタイプ医療を提供することは、患者、家族、そしてこの国の未来にとって正しいことでしょうか?

次回は「折れてる?折れてない?部位別骨折の簡易判定」