15「 ぎっくり腰 」
* 魔女の一撃 *
「清流先生、救急隊から受け入れ要請です」
看護師の声は、いつものように静かで、どこか事務的な響きを含んでいた。
「今朝、急に腰が痛くなって動けなくなった男性です。受け入れて、よろしいでしょうか?」
急な腰痛というものには、いくつかのパターンがある。骨折、感染、あるいは椎間板ヘルニア。清流は頭の中にある“急性腰痛”の引き出しを開け、病名カードの整理をする。しっかりとした問診、身体所見の観察、そして画像と血液尿検査、どれも重要な情報だ。
「清流先生、いつも受け入れありがとうございます。末田和夫さん、35歳。事務職です。今朝、洗面台で顔を洗おうとして、腰に『ピキッ』という音がしたそうです。それ以後、一歩も動けなくなったようで救急要請されました。バイタルは正常。既往歴もありません」
救急隊員の声はハキハキとしていて、耳に心地よい。彼らとはこの整形外科を立ち上げて以来の付き合いだが、その規律正しさは安心感を与えてくれる。
「末田さん」と清流は担架に仰向けになった彼に話しかけた。
「今朝、目が覚めたときはどうでしたか?」
「起きたときは、何ともなかったんです」
と末田さんは消え入りそうな声で言った。
「でも、七時半頃に顔を洗おうと屈んだ瞬間、ベキッという音がして。それから、どんどん動けなくなってしまいました」
「足に痺れは? 動かしにくいところはありますか?」
「いえ、ただ腰が痛いだけです。それ以外は、全然大丈夫です」
清流は一通りの理学所見を取り、血液尿検査と画像検査をオーダーした。
「いいですか、末田さん。今の症状から鑑別する必要があるのは、感染や骨折、ヘルニア、それに内臓の病気です。確率は低いですが、悪性腫瘍の可能性もゼロではありません。炎症がないかを血液を調べ、腎結石がないかを尿を調べます。末田さんの年齢で骨折は考えにくいし、ヘルニアなら目が覚めた段階で兆候があります。これらはMRIで確認しますね」
* 魔女の正体 *
朝の7時から9時のあいだ、前傾姿勢をとった瞬間に「魔女」はやってくる。そして魔法がかった痛みは、静かに、そして確実に範囲を広げていく。それが「ぎっくり腰」、西洋でいう「魔女の一撃」の典型的なスタイルだ。医者になるまで、清流はそれを「びっくり腰」だと思っていた。何かに驚いて腰を抜かすようなものだと。原因は判然としないというのが通説だが、清流には清流なりの仮説がある。なぜなら、清流自身がその「一撃」を何度も喰らった過去があるからだ。
最初の一撃は30代半ばだった。本当に普通の朝だった。洗面台で顔を洗おうとしたとき、腰に「ピリッ」とした違和感が走った。しかし1時間もすれば、清流は完膚なきまでに動けなくなっていた。「青天の霹靂」とは、こんな状況を表現するのだろうと清流は納得した。発症から2日間、シップはもちろん、痛み止めの薬も注射も、低周波も牽引も、まるで無力だった。ただ、マッケンジー体操をすると、薄皮が剥がれるように痛みが少し和らいだ。清流はこれまでに5回ほど“魔女の一撃”を喰らい、1度だけ仕事を2日休んだ。その時は、食卓から立ち上がろうとした瞬間、腰に力が入らず床に倒れ込み、数分間、微動だに出来ず、痛みが過ぎ去るのをじっと待った。外は晴天の平日に、ベッドの上で天井を見つめながら、清流は魔女の正体を探った。1週間前まで遡ってみても、決定的な原因は見当たらない。ただ、清流は一旦庭仕事やDIYを始めると、止まれない性分だ。長距離運転中、車載カメラが「休みましょう」と忠告しても、清流は目的地までアクセルを踏み続ける。おそらく、同じ姿勢を続けることが、椎間板というサスペンションに過剰な負荷をかけるのだろう。後にも先にも、あれほどの激痛を経験したことが無く、職場復帰した日に腰のMRIを撮ってみたが、そこにあったのはわずかな椎間板変性だけで、ヘルニアの影も形もなかった。
点と点がつながった。魔女の正体は「腰椎椎間板症」だ。
* 除外診断 *
「清流先生、すべての検査が終わりました」
末田さんが再び診察室に車いすで運ばれてきた。
「末田さん、血液検査の炎症を示すCRPは陰性、だから、ばい菌の仕業じゃありません。尿に血も混じっていませんから、腎結石でもありません。MRIを見る限り、骨も綺麗だし、腫瘍もヘルニアもありません」
「……どこも悪くないんですか?」
末田さんはむしろ戸惑ったように清流を見た。
「これからが本論です。椎間板は下に行くほど厚くなるのが自然ですが、ここだけが薄く、黒ずんでいるでしょ。これはクッション材である椎間板がヘタっている証拠です。ヘタった椎間板には周りから神経が入り込むので、そこにストレスがかかるとその神経が刺激されて激痛が出るんです。これが、世間でいうところの『ぎっくり腰』です」
清流は自分なりに論理的な説明をしたつもりだったが、彼はあまり理解していないようだった。
「痛み止めをいただけますか?」
「寝ているときに痛まず、動く時だけに出る激痛には、痛み止めは効かないかもしれません」
と清流は言い切った。救急車で運ばれてきた人間にとって、「痛み止めが出ない」というのは、おそらく納得が出来ないであろう。
「痛み止めは寝ていてジクジク痛む時だけにしてください。頓服として出しておきますね。それよりも、この運動をちょこちょこベッドの上で、うつ伏せになってしてください」と、清流はマッケンジー体操のパンフレットを渡した。
「先生、原因は何ですか?」
「末田さん、ここ数日、ずっと同じ姿勢でいませんでしたか? 座りっぱなしとか、前かがみの仕事とか、長距離の運転とか」
「……事務職なので、ずっと座っています」
「座り続けることは、椎間板にとって沈黙の拷問のようなものです。先ほど言ったように、ヘタった椎間板の神経が刺激されて“ぎっくり腰”になります。時々立って、散歩をして、こんな感じで背骨を伸ばしてください。予防には、日常の運動が一番の薬です」と、腰痛体操のパンフレットを渡した。
車いすに座った末田さんは、看護師に押されて静かに部屋を去っていった。
* 古い傷 *
腰の痛みといえば、もう一つ忘れられない記憶がある。家族で海辺のログハウスに泊まったときのことだ。朝、清流は網を持ち子供と一緒に、海へ降りることにした。階段までは遠かったので、清流はログハウス傍の近道の急斜面を選んだ。運動神経には自信があったから、クロックスでも大丈夫だと高を括っていた。子供が楽しそうに滑り降りるのを見て、清流はあとに続いた。その瞬間、清流の体は重力から解放され、宙に浮いた。次の瞬間、腰が地面に叩きつけられ、そこには不運にも切り株があり、清流の腰を直撃した。息が止まった。数ヶ月前、先輩医師が子供と遊んでいて腰の骨を折り、散々な目にあったという話を思い出し、先輩の顔が脳裏をよぎった。
「パパ、大丈夫?」
子供が心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫だよ、何でもない」
清流は虚勢を張り、恐る恐る立ち上がった。もし骨折していれば、立つことすら叶わないはずだ。打撲の鈍い痛みと、背中の皮膚が焼けるような感覚があるが、それでも歩くことはできた。1ヶ月仕事を休まずに済む。その事実に、清流は心底安堵した。
「パパ、海になんかいるよ!」
子供は残酷なほど無邪気だ。でも、その無邪気さが清流の痛みを少しだけ遠ざけてくれた。波打ち際を見ると、そこにはホタルイカが泳いでいた。
「ホタルイカだ。網ですくって、ログハウスで食べよう」
清流は痛みを意識の隅に追いやり、五杯の獲物を仕留めた。子供は大はしゃぎだった。
ログハウスに戻り、妻に事の顛末を話し背中を見てもらうと、清流の背中は皮が剥け、血が滲んでいた。妻は、そんな状態でイカを獲ってきた清流の執念に、呆れたような感心を寄せてくれた。
傷跡はとうの昔に消えてしまったけれど、あの時の衝撃と、透き通る海の光景と、無邪気な子供の笑顔が、今でも清流の腰骨に刻まれている感覚がする。ただ、イカをどう調理したか、どんな味だったかは、どうしても思い出すことが出来ない。
次回の「忘れられたカルテ 16~ 整形内科医 芥川清流の挑戦」は “ 手首が痛い ” です。