10「 説得の失敗 」

 

* 理解の壁 *

一週間後、武田さんは再び診察室のドアを開けた。

「武田さん、痛みは、どうですか?」

「まだ痛いです」

「では、先週ブロック注射をする前を“10”とした場合、今はどの程度でしょう?」

10です」

その返答は、乾いた砂漠のように、清流の期待を吸い込んでいった。初診のとき、彼は痛みに耐えかねて、椅子にじっと座ることすらままならなかった。でも今日は、こうしてちゃんと椅子に座って話ができている。

「夜は眠れていますか?」

「寝返りを打つと痛くて、目が覚めてしまうんです」

「あまり痛みが強ければ、もう一度ブロックしてみますか?」

……先生、あの、先が見えないので、手術したいのですが」

“先が見えない”、その言葉は、まるで霧の中を彷徨う旅人の吐息のようだった。清流は初診の際、手術のメリットとデメリットを丁寧に説明したはずだ。背骨の手術は、「一生に一度しか使えないゴールデンハンマー」だと。しかし、人は一度に大量の情報を処理できないから、医師が説明する一度きりの合理的な説明よりも、「周りの人間」の感情的な囁きに影響される。「大きな病院でセカンドオピニオンを」、「早く手術した方がいい」、などなど。そこにヘルニア経験者がいれば、なおさらだ。周りからの無責任な声は、清流の言葉を打ち消す遠い波の音のようだ。経験上、ここで再び同じ話を繰り返すのは、ほぼ意味がないことを清流は知っていた。

「わかりました。紹介状を書きましょう」

清流はあっさりとそう言い、静かにパソコンを打ち始めた。そんな清流を、周りの看護師が悲しそうな目で見ていることを清流は感じていた。

 

* ガラスの十代ならぬ、ヘルニアの二十代 *

同じ椎間板ヘルニアでも、多くは時間の経過でうまく収束していく。特に学生の場合、手術を選択するケースは稀だ。以外にも、椎間板ヘルニアの好発年齢は20代。しかし、社会人と違い、若い学生に積極的にメスを入れたがる脊椎外科医は少ない。学会で発表でもしようものなら、相当な批判の目にさらされるだろう。結局のところ、仕事があり、家族がいる社会人は、「生活」という重力から逃れられず、休むことが難しい。学生なら、誰からも文句を言われずに、ゆっくりと時を過ごせる。

以前の病院で、中学生のヘルニアの手術症例を覚えている。その後、中高時代を通じて症状は一向に改善せず、2度、3度と再手術を繰り返した。もちろん、手術を重ねるごとに状況は悪化し、最後は煙のようにいつの間にか通院は途絶えた。若ければ若いほど、残りの人生は長い。そして、メンタルが不安定な「ガラスの十代」、という歌があったように、「ヘルニアの二十代」はガラス以上に“取り扱い注意”なのだ。

 

* 信頼の構築 *

「山尾さん、あの痛いブロック注射の後、脚の痛みはどうですか?

山尾さんは50代の男性公務員。前回、神経根ブロックと同日に、2週間の休業診断書を作成した。

「先生、おかげさまで、夜は眠れるようになりました。まだ動けば痛みはありますが、当初よりはだいぶ……

彼の言葉は、穏やかな潮の満ち引きのように、安心感を与えた。

「ブロック注射前を10としたら、今の総合点はどのくらいでしょう?」

「痛いときは8くらいですが、総合点なら6ぐらいです」

「今日もブロックしますか?」

「あの注射は痛いので……今の痛みなら、大丈夫そうです」

「わかりました。完全に痛みが消えてから元の生活に戻すのではなく、痛みが引けば無理のない範囲で、どんどん元の生活に戻していってください」

「仕事はいつごろから出てもいいでしょうか?」

2週間の診断書を出しましたが、肉体労働でなければ、自信がつき次第復帰は可能です」

“自信”、それは、これといった形がないばかりか、本人だけしか認識できないものだ。

「これはまた再発しますか?」

「山尾さんのヘルニアは、脱出ヘルニアといって、背骨の後ろの靭帯を突き破っているタイプですから、数か月~数年で無くなることもあります。でも、新たにヘルニアが出てくる可能性もありますから、注意が必要です」

「どんなことに注意すれば?」

「腰の椎間板に負担をかけないことです。一番負担がかかるのは、前傾姿勢。次に、座った姿勢、特にソファーや車の椅子などで腰が丸まった状態です。逆に一番負担が少ないのは寝ている状態で、前かがみよりも立っているほうがまだましです。前傾で作業をしたり、悪い姿勢で座り続けたりせず、要は同一作業や同一姿勢を繰り返さないことが重要です」

「なるほど、気を付けて生活します。先生、お世話になりました。また悪くなったら来ますね」

山尾さんは、そう言って診察室を出て行った。

周りからの無責任な情報、仕事を休みにくい現実、我慢できない痛み、そして「先が見えない」という焦燥感。そういった理由で手術に踏み切る症例は、だいたい10%程度だ。残りの90%は、清流との間に信頼関係が築かれ、3週、3か月という「時間」という名の治療薬によって、症状は自然に軽快していく。

 

* 目は口ほどに *

人それぞれに、背負っている事情と人生観があり、それ以上清流が土足で踏み込むことはできない。その境界線を知るとき、清流はいつも医療の限界を感じる。

仕事が一段落したとき、看護師の隅乃さんが、清流に話しかけてきた。

「私が看護師を始めたころは、ヘルニアと診断されればすぐに手術でした。時代が変わったんですね。今では、ヘルニアで手術したって聞くと、よほどの痛みか運動麻痺が出たのかと思えるようになりました」

「医療の発展で診断技術が上がって、手術器材や手術方法も洗練されてきたけど、肝心の人間自体が進化していないんです。だから、医療従事者側のやっていることはどこか泥臭いままだし、患者側の考え方もアップデートされてない感じがしますね。」

「先生、なぜあっさりと紹介状を書かれたのですか?」

「あの患者さんの目を見て、これ以上説得しても無駄だと感じたから。すでに気持ちが固まっている目でしたから」

清流はそう答えながら、窓の外の黄色いミモザをぼんやりと見ていた。

 


次回の「忘れられたカルテ 11~ 整形内科医 芥川清流の挑戦」は “  肘が痛い ” です。