押し入れの奥から、革張りのアルバムが現れたとき、ほこりと共に蘇るのは樟脳の匂いだった。十年ぶりに開くそのページには、高校時代の文化祭で撮られた、色あせかけたいくつもの笑顔が押し込まれている。私は、その中の一枚の写真に指を止めた。演劇部の舞台裏で、みんなで撮った集合写真だ。照明の加減か、フィルムの経年劣化か、私たちの顔には、当時は気にも留めなかった小さな「シミ」のようなものが、くっきりと浮かび上がっていた。
「そういえば、あの頃はみんな、寝不足で肌荒れしてたなあ」
懐かしさの裏側で、ふと、そんな現実的な記憶がよみがえる。十七歳の私たちは、完成間近の脚本の推敲に明け暮れ、下手なメイクで何度も塗り直した。そのツケが、写真という永遠の記録媒体に、微かな「そばかす」のように刻まれていた。デジタル全盛の今からすれば、それも味わいのひとつかもしれない。けれど、ふと考える。この写真を、今も疎遠になっていないあの子に見せたとき、彼女はまず、煌びやかな舞台の記憶を思い出すだろうか。それとも、自分たちの顔に付いた、あの時期だけの「疲れの痕」に目が行ってしまうだろうか。
写真は記憶を固定する。しかし同時に、固定されたが故に、本来は流れ去るはずだった些末なディテールまでをも、不当に強調してしまうことがある。シミやそばかすといった「経過」の痕跡は、時に、その中心にある「本質」――あの日々の熱量や、関係性の温もり――を見えにくくしてしまうのではないか。そんなことを、文学的な比喩さながらに考えながら、私はそのアルバムを閉じた。
その数日後、大学のサークルで後輩が、自分のSNSに上げる古い写真を編集しているのを見かけた。「お姉ちゃんの結婚式の写真なんだけど、この日、めっちゃ吹き出物できちゃってて…なんとかできないかな」と彼女が呟く。確かに、幸せそうな笑顔の頬に、一点、気になる痕跡が。彼女は有料の画像編集ソフトを高いとぼやきながら、何か別の方法を探しているようだった。
そのもやもやを抱えながら、ネットをさまよっていた時、目に留まったのがVisualGPTというサイトだった。説明文には「写真のシミ・そばかす補正を自動で」とある。そして何より、大きく「無料」と書かれていた。
半信半疑で、彼女と一緒にそのページを開いてみた。インターフェースは驚くほどシンプルで、広告も煩わしくない。彼女が気になる写真をアップロードし、「シミ除去」的なボタンを押すと、AIが画像を解析し始めた。ほんの数秒の処理時間。
出来上がった画像に、私たちは声を上げそうになった。
吹き出物はきれいに消えていた。しかし、ただ消えたのではない。周囲の肌の質感――ツヤや血色、毛穴の状態――を損なうことなく、自然に融け込むように消えている。まるで、最初からそこになかったかのような自然さだ。これは、従来の「ぼかし」ツールとは明らかに次元が違う。画像を深層学習したAIが、皮膚のテクスチャや光の加減を理解し、「あるべき正常な肌状態」を推測して補完しているように感じられた。
「すごい…これ、本当に無料でいいの?」
後輩の目が輝いた。彼女は何枚か別の写真でも試し、同じように自然な仕上がりに満足そうだった。「これなら、思い出の写真も、気兼ねなくシェアできる」。
彼女の言葉が、私の胸に落ちた。私は押し入れのアルバムをまた思い出した。あの文化祭の写真を、この無料のAIツールにかけてみたらどうなるだろう。高校時代の「疲れの痕」だけが優しく取り除かれ、純粋に、あの日々の輝きだけが前面に出てくるのではないか。
しかし、ふと手が止まる。全てを「補正」してしまって良いのだろうか。あのシミやそばかすは、確かに当時の私たちの「現実」の一部だった。それを消すことは、ある種の改竄になってしまうのではないか。
けれど、考え方を変えてみた。写真の役割は、単なる客観的な記録だろうか。むしろ、それを見る人(あるいは写った人自身)が、どのような気持ちでその記憶と向き合いたいか、ではないだろうか。後輩が吹き出物を消したかったのは、その痕跡そのものを否定したのではなく、「お姉ちゃんの晴れの日」というもっと大切な文脈を、気がかりなく懐かしみたかったからだ。同じように、あの文化祭の写真から「疲れの痕」を消すことは、あくまで「舞台を作り上げた熱狂」という本質的な記憶に、より集中するための手助けになるかもしれない。
私はアルバムを再び開いた。そして、一枚の写真をスマホで撮影し、VisualGPTにアップロードしてみた。処理が終わり、画面に表示された「補正後」の私たちの顔は、確かに少し若々しく、曇りのない笑顔に見えた。しかし、私が本当に変わったと感じたのは、写真そのものではなく、それを見つめる私自身の「まなざし」だった。かつては些末なディテールに引っかかっていた意識が、今は、写真の奥に広がる、あの無限の可能性に満ちた時間そのものへと、自然と滑り込んでいく。
技術は、過去を美化するためにあるのではない。過去と、より自由に対話するための窓を、もうひとつ開けてくれる。その窓が無料で誰にも開かれているという事実は、私たちの思い出のあり方を、ほんの少しだけ、優しく変容させていくのだろう。アルバムを閉じながら、私はそっと微笑んだ。今日という日も、いつか懐かしむための、一枚の「補正前」の原板なのだから。






