1942年の出来事の歴史的背景
1942年の危機は、この分布を「逆転」させました。マウンドーとブティダウン北部の多くのアラカン族の村は、集団虐殺に遭うか、住み慣れた土地を捨ててシットウェや南部へ逃れざるを得なかったため、北端からアラカン族の村が消滅しました。同様に、キョウピュー、ミンビャ、ミャウウーのイスラム教徒も北部へと逃れた結果、アラカン州は北部がイスラム教徒、南部がアラカン族というように、地域が明確に分断されることになったのです。
危機以前の状態は、「アラカン族が国境まで広く住み、イスラム教徒は仕事のために混住している状態」でした。1942年の危機はこの共生を破壊し、今日まで解決できない土地所有権と民族分断の問題を生み出しました。1931年の記録によると、マウンドー郡ではイスラム教徒が多数派になっていたものの、アラカン民族の人口も今日より明らかに高い割合でした。イスラム教徒(インド系イスラム教徒/ベンガル人)が約75%~79%、アラカン族およびその他の民族(Arakanese/Maghs)が約20%~24%でした。当時、マウンドーにおけるアラカン民族の人口は約4分の1近くあり、市街地や多くの国境沿いの村々に強固に定住していました。ブティダウンでは、アラカン民族とイスラム教徒の比率はマウンドーよりも近く、イスラム教徒(インド系イスラム教徒)が約56%~60%、アラカン族およびその他の民族が約40%でした。ブティダウン地域では、ミョー、ダインネット、テッなどの部族が山岳地帯に多く住んでいたほか、河川流域にも多くのアラカン族の村が存在していました。
イギリスの稲作政策
1880年代から、イギリスはアラカン州を主要な米生産地として指定しました。その際、労働力需要に応じて、隣接するチッタゴン地区からベンガル人農業労働者の大量流入を認めたことが、1931年の人口比率につながりました。
国境の自由
当時、ビルマとインド(現在のバングラデシュを含む)は一つのイギリス帝国の下にあったため、国境越えは国内移動のように自由であり、それが人口増加を加速させました。1942年の危機直前において、マウンドーとブティダウンは「イスラム教徒の人口が優勢ではあったものの、アラカン民族も地域の重要な割合(25%から40%)を占めていた状態」でした。1942年の危機はこの比率を完全に破壊し、アラカン民族を故郷から追い出し、少数派、あるいはほとんど存在しないレベルまで追い込んだのです。
第二次世界大戦中の1942年、イギリス軍が敗北して撤退した際、アラカン州北部では武装集団、地元イスラム教徒、アラカン民族の間で激しい相互虐殺が発生しました。アラカン側でも集団虐殺がありましたが、イスラム教徒(ベンガル人)側でも多くの死者が出ました。これは両者が傷ついた悲劇的な歴史です。1942年のアラカン州内の衝突は相互の集団虐殺(民族間暴力)であったため、イスラム教徒(ベンガル人)側にも、彼らが殺害され、家を追われたことに関する記録があります。特にアラカン州南部および中部(キョウピュー、ミンビャ、ミャウウーなど)においてイスラム教徒が大量に殺害され、北部(シットウェ、ブティダウン、マウンドー)へ逃れた経緯は、以下の通り確認できます。
イスラム教徒側の歴史記録の視点
イスラム系の歴史家や一部の国際的な研究者(例:モーシェ・イェガー)によれば、1942年3月から4月にかけてイギリス軍が撤退した後、アラカン州南部からイスラム教徒への攻撃が始まったとされています。ミンビャやミャウウー地域に住んでいたイスラム教徒は、地元の武装組織の攻撃により集団で死亡し、生存者は北部を目指して逃れたといいます。一部のイスラム系記録者は死者数を数万人と記していますが、正確な数字については歴史家の間で確認が難しいままです。
参照可能な情報源
- 「三日月と龍(The Crescent and the Dragon)」 - モーシェ・イェガー: 1942年の衝突によりアラカン族が北部から南部へ逃れたのと同様に、イスラム教徒も南部から北部へ集団移住し、その移動途中で殺害されたことが記されています。
- 「諸国民の家族の中のビルマ(Burma in the Family of Nations)」 - マウンマウン(マウンマウン博士): ビルマの歴史家マウンマウン博士の著作でも、行政が崩壊した中での相互復讐殺害により、両者が多大な被害を受けた様子が分析されています。
- イギリス政府の戦後報告書(British Frontier Areas Administration Reports): 戦後、イギリス軍が再進駐した際に作成された記録には、アラカン州が2つのゾーン(イスラム教徒が多数の北部ゾーンと、アラカン族が多数の南部ゾーン)に強制的に人口変化した様子が記録されています。
1942年3月のイギリス軍の突然の撤退による行政機構の崩壊が、主な原因として指摘されています。法の支配が失われたとき、地元2民族間に長く潜在していた疑念と不満が武装暴力へと発展したといわれています。国際的な専門家(例:アンソニー・ウェア、マグナス・マースデン)は、イギリスがアラカンを統治していた際、民族間の調和よりも自国の利益のために差別的な政策をとっていたと分析しています。仏教徒のアラカン族はイギリスに反対し、日本を支持しました。イスラム教徒はイギリスに忠誠を誓い、イギリスも彼らを「Vフォース」と呼ばれるゲリラ部隊として武装させました。このように、世界大戦の対立構図(連合国対軸心国)が、地元の民族紛争をより増幅させたというのが歴史家たちの見解です。
国際社会はこの出来事を「歴史的な集団虐殺(Historical Massacre)」として認めていますが、それを一方的に「ジェノサイド(Genocide)」と定義するよりも、両者に加害と被害があったことから「民族衝突による戦争犯罪(Communal War Crimes)」として見る向きが強いです。
1942年の悲劇的な歴史的出来事は、歴史書の中だけに留まらず、現在のアラカン州の政治、社会、軍事情勢に極めて深い影響を及ぼし続けています。1942年の危機により、アラカン州は地理的に2つの部分に明確に分断されました。北部(マウンドー、ブティダウン)のアラカン民族が南部に殺到したため、その地域ではイスラム教徒の人口が激増しました。逆に南部や中部のイスラム教徒が北部へ逃れたことで、アラカン民族が多数を占める地域となりました。今日起きている紛争は、当時の人口比率の不均衡と土地所有権の争いに基づいていることがわかります。
根深いトラウマと相互不信(Deep-seated Trauma)
1942年に家族が集団で殺害され、村全体が焼き払われた物語は、世代から世代へと口伝歴史として受け継がれてきました。この出来事は、両社会の間に「自分たちは彼らに根絶やしにされる」という生存への脅威(Existential Threat)を常に潜在させています。そのため、2012年の危機やその後の紛争において、人々が容易に感情を爆発させるのは、この1942年から始まった歴史的な傷跡があるためです。
市民権と「不法入国」論争
1942年の危機の後、イギリス軍が再進駐した際、インド側から再び大量の農業労働者が流入しました。今日のアラカン民族がイスラム教徒(ロヒンギャと自称する人々)を「不法入国者」とみなす理由の一つは、1942年以降のイギリスによる人口変化の記録に基づいています。一方で、イスラム教徒コミュニティは、自分たちは1942年以前から存在していた世代であると反論しています。
武装革命とナショナリズム
アラカン・ナショナリズムの台頭において、1942年の危機は重要な役割を果たしました。「自分たちの民族は自分たちで守らなければならない」という認識は、AA(アラカン軍)のような武装組織に対する民衆の支持を得る大きな原動力となっています。中央政府は自分たちを守ることができなかった(1942年の行政崩壊時のように)という歴史的教訓が、自己決定権へのさらなる要求に繋がっています。現在のアラカン州の宗教・民族紛争を理解するためには、1942年の出来事を避けて通ることはできません。当時解決されなかった「土地所有、民族の安全、市民権」の問題は、今日でもビルマ政治の最も複雑なパズルとなっています。
考察すべき点
一部の歴史家は、1942年を2つの民族間の「民族間戦争(Communal War)」と呼び、その戦争は停戦しているだけで、今日まで真の意味で終わっていないと分析しています。
1942年の相互虐殺の後、イギリス軍がアラカン州に再進駐した時期(1945年~1948年)に行った管理は、今日の紛争の「礎」となりました。彼らの決定は、地域の人口構成と政治情勢を永久に変えてしまいました。
地域をゾーンに分割した統治(Administrative Partitioning): イギリスは戦後、2つの民族が共存することはもはや不可能だと考えました。そのため、マウンドーとブティダウンを「イスラム教徒ゾーン」、残りの地域を「アラカン族ゾーン」として別々に統治しようと試みました。これは「分離」や「特別地域」要求の始まりであり、アラカン民族にとっては自国の領土が分割されるという恐怖(Balkanizationへの恐怖)を生じさせることになりました。
戦争中、イギリスは日本軍に対抗するため、イスラム教徒を「Vフォース」と呼ばれるゲリラ部隊として武装させました。戦争が終わっても、それらの武器は完全には回収されませんでした。それらの武器は後に「ムジャヒディン(Mujahid)」反乱軍の出現を助け、国境地帯での武装紛争を数十年間にわたって長引かせる原因となりました。1942年にインド側へ逃れたイスラム教徒を、イギリスは農業労働者として呼び戻しました。しかし、その帰還の際、戦前からの居住者だけでなく、インド(現バングラデシュ)側からの新参者も混じっていました。このプロセスは、「誰が元の地元民で、誰が不法入国者か」という、今日まで争われている市民権問題の主な論争点となりました。一部の記録によれば、イギリス軍の将校たちは戦時中に協力したイスラム教徒の指導者たちに「独立したイスラム行政地域」を与えると約束したといわれています。しかし、1948年にビルマが独立した際、それらの約束は無効となりました。この反故にされた約束が、イスラム教徒コミュニティに「裏切られた」という感情を抱かせ、独立直後の武装蜂起の原動力となりました。
イギリスの管理は「一時的な平和」のみを目的としており、長期的な民族間の調和を軽視していました。彼らが残した「ゾーン分割」や「武装化」といった政策は、アラカン族とイスラム教徒の間の今日まで解決できない歴史的憎悪と不信をより強固なものにしてしまいました。
1948年のビルマ独立後にアラカン州北部で発生した「ムジャヒディン反乱(Mujahid Rebellion)」は、1942年の出来事の直接的な帰結と言えます。この反乱はビルマの最も初期の内戦の一つであり、今日の問題の始まりでもあります。
地域分離の要求: 一部のイスラム指導者は、マウンドーとブティダウンをビルマから分離させ、当時の東パキスタン(現バングラデシュ)に併合させるか、あるいは独立したイスラム国家を建設しようと試みました。1942年の虐殺による両民族間の不信感の欠如が大きな動機となりました。
武装勢力: イギリスから提供されたVフォースの武器と戦闘経験があったため、容易に武装闘争の道を選びました。
反乱の勢い(1948年~1961年): 1948年5月頃、ジャファル・カウォール(Jafar Kawwal)率いるムジャヒディン部隊は、マウンドーとブティダウンの政府拠点を攻撃し始めました。彼らは村々を支配し、アラカン民族の村人を追い出し、税を徴収しました。当時、中央政府は国内各地の反乱軍の鎮圧に追われており、アラカン北部に注力できなかったため、ムジャヒディンは多くの地域を支配下に置くことができました。
1950年代に入り、ビルマ軍は「マユ作戦(Operation Mayu)」を含む多くの作戦で鎮圧にあたりました。1954年に一部のムジャヒディン指導者が殺害された後、勢いは衰えました。1961年、残存していたムジャヒディン組織の多くは政府に公式に降伏しました。ムジャヒディン反乱は終結したものの、以下の結果を残しました。
- ムジャヒディンの降伏を促すための交渉として、ウー・ヌ(U Nu)政権は1961年にマウンドー、ブティダウン、ラテダウン北西部を統合し、「マユ国境地区(Mayu Frontier District)」として特別行政権を与えました。これに対し、アラカン民族は猛烈に抗議しました。
- 「ロヒンギャ」という呼称は、このムジャヒディン反乱の時期に政治的により多く使用されるようになりました。
- この反乱により、ビルマ軍はアラカン北部の国境警備を常に最優先事項とし、今日まで軍事的な視点で見ることになる原因となりました。
ウー・ヌ首相政権(AFPFL時代)によるアラカン州北部への管理は、現在まで続くアラカン・イスラム紛争における最も複雑な「政治的転換点」であると歴史家は考えています。ムジャヒディン反乱軍を降伏に導くための懐柔策として、ウー・ヌ政権はマウンドー、ブティダウン、ラテダウンの北西部を統合して「マユ国境地区」と定めました。この地域はアラカン州政府の管轄下には置かれず、ラングーンの中央政府(国防省)が直接統治しました。アラカン族はこれを「州内からの離脱」あるいは「アラカン州の切り刻み」とみなし、激しく抗議しました。この行動により、ウー・ヌ政権とアラカン大衆の関係は著しく悪化しました。
ウー・ヌ時代は、「ロヒンギャ」という呼称が公的なレベルで最も使用された時期でした。ビルマ放送局(BBS)では、ロヒンギャ語による週刊放送が許可されていました。ウー・ヌ首相自身も1954年を含む機会あるごとに、ロヒンギャを「ビルマの先住民族」の中に含めるような発言を行いました。今日までイスラム教徒コミュニティはこれを先住民族である証拠として引用し、一方でアラカン族や一部の歴史家は、これをウー・ヌの「票田政治(Vote-bank politics)」による誤った認定であると批判しています。1960年の選挙において、ウー・ヌの「清廉AFPFL」はイスラム教徒の票を得るために、「アラカン州の分離付与」の約束に加え、イスラム教徒に対する多くの権利を約束しました。戦後、東パキスタン(現バングラデシュ)から不法入国した人々に対し、政治的利益のために政府が効果的に阻止しなかったという非難もありました。ウー・ヌはアラカン族に「アラカン州」を約束し、一方でイスラム教徒には「特別な行政権」を約束しました。このような「二股」の約束が、両民族間の領土争いをより激化させました。
ウー・ヌ政権のこれらの管理政策は、1962年にネ・ウィン将軍率いる軍部がクーデターを起こした理由の一つでもありました。軍部は「国が分裂しようとしている」との理由で権力を掌握した後、マユ国境地区を廃止し、1982年市民権法を制定して、ウー・ヌ時代に与えられた権利を剥奪しました。ウー・ヌの政策が少数派の権利を認める民主的な試みだったのか、あるいは権力維持のために歴史を無視した行動だったのかは、今日でも専門家の間で激しい議論の対象となっています。
1942年のアラカン州内の衝突において、テッ(Thet)民族も他のアラカン系部族と同様に、極めて甚大な被害を受けました。1942年以前、テッ族はマウンドー郡北部およびブティダウン郡北東部(特にナフ川沿いおよびマユ山脈の麓の村々)に多く居住していました。テッ族はマウンドー郡の北端地域において、伝統に従い隔離された村で平穏に暮らしていました。彼らの隣接する村々には、アラカン族、ダインネット族、ミョー族、そしてチッタゴン側から流入したイスラム教徒(ベンガル人)の村がありました。1942年5月に衝突が激化した際、テッ族の村も武装したイスラム教徒集団の攻撃を避けることはできませんでした。テッ族は人口が少なく穏やかな人々であったため、攻撃に対抗する力がほとんどありませんでした。マウンドー北部のテッ族の村では、子供から高齢者に至るまで無残に殺害され、テッ族の口伝や一部の記録によれば、生きたまま焼き殺された者もいたといいます。命からがら逃げ出した生存者は、マユ山脈を越えてブティダウンへ、あるいは森の中に隠れて、困難な逃避行を強いられました。この危機はテッ族にとって「民族滅亡の危機」をもたらした歴史的な傷跡です。テッ族はもともと人口が少ない部族であったため、1942年の虐殺によってその人口比率は極端に低下しました。彼らがもともと定住していたマウンドー北部の多くの古い村には、その後にイスラム教徒が定住したため、戦後、先祖伝来の村に戻ることができず、領土を失いました。今日、テッ族はマウンドーおよびブティダウン郡において、消滅の危機に瀕した少数民族として残るのみとなっています。

