3月20日(金)、劇団印象の第33回公演、『藤田嗣治 白い暗闇』を見ました。


3月24日(火)までの公演で、すでに終了しています。


作・演出は、鈴木アツト。


チラシに、

「東洋と西洋。その狭間で己の“絵”を模索し続けた日本人画家の傷を抉る。」

と。

その人物は、藤田嗣治(1886~1968)。


舞台は、10場にわかれていて。

「『日本人という枠を飛び越えた、本物の絵描きになる』ため、横浜港よりパリへと旅立った」時期。

パリでは、キュビズム、シュールレアリスム、素朴派などの様々な画風が乱立。日本の、狭い『画壇』しか知らなかった藤田は、自らの『世界』を作り上げるために、模索します。

そして、第一次世界大戦(1914~1918)。


藤田が、「“乳白色の肌”という独自の技法を確立し成功」(チラシ)した時期。

和光堂の「シッカロール」(ベビーパウダー)をまぜることにより、独特の肌の色が生まれ、一躍、パリの寵児に。


しかし、世界情勢の悪化で、帰国。

その日本で……。


藤田嗣治(石橋徹郞)が、横浜港から発つ前に、父親の嗣章とのやり取りのなかで、「日本人であれ」という父親に対して、自分は「世界人でありたい」と。

藤田嗣章は、陸軍軍医総監。森林太郎(鷗外)の後任。

そうして、パリに旅立った嗣治。


その藤田が、はじめは軍部からの協力要請を断っていたもの、やがて、「戦争画」を描き、さらには、陸軍美術協会理事長となり。旗振りの先頭に。


なぜ、藤田嗣治は、「戦争画」を書くようになったのか?

あるいは、なにが、彼の背中を、強く押したのか?

彼は、トレードマークの「おかっぱ頭」から、「丸刈り頭」に。服も、国民服に。

日本国中が、戦争の熱狂に流されて行くなか、彼は、その流れに乗り、時に、先頭に立ち。


しかし、敗戦。

藤田を先頭に立てていた画家たちは、彼に、「戦争責任」を押しつけ、戦後を、素知らぬ顔で乗り越え。

藤田は、日本に、日本人に絶望し、パリに。

そのパリ、彼をつつんでいた熱狂は、すでに去り。

藤田嗣治は、すでに、過去の人に。


1955年、藤田は、日本国籍を棄て、国籍をフランスに。

晩年は、自らの設計した、「フジタ礼拝堂」で、静かな時を過ごし。


ただ、舞台は、1945年8月末、疎開先の、神奈川県藤野のアトリエまでを描いて。


劇場で配布されたパンフレット、鈴木アツトは、

昨年の東京国立近代美術館で開催された『コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ』展に触れて、

「私も見に行き、来場者に外国人も多く、老若男女が戦争画(作戦記録画)について、思考し対話をするように絵を見ていた様子を」思い出し、

「あの展示が、大袈裟に言えば、私たちは『戦争を描くこと』に向き合い続けなければならないと、教えてくれたように思うのです。」と。


あの『記録をひらく 記憶をつむぐ』展を見て、同じく、向き合い続けなければならないと思いました。

チラシもポスターも作らず、特に宣伝活動もせず。また、図録もなく。

しかし、多くの人びとが出かけ。


この『藤田嗣治~白い暗闇~』の舞台を見、その『時代』を見、そこに生きた人びとを見、そして、『今』を思いました。











公式サイトから

東洋と西洋。その狭間で己の“絵”を模索し続けた、日本人画家の傷を抉る。

2026年に生誕140周年を迎える画家・藤田嗣治。エコール・ド・パリの画家として名声を博し、その生涯の半分以上を「外国」で生きた彼が、なぜ「日本」にこだわり、戦争画を描くに至ったのか。

藤田を調べていく中で、当時の日本の画家たちの多くが、自ら従軍して国威発揚の絵を描いていた事実を知った。社会の役に立つ絵を描きたい、という若い画家たちの素朴な思いが、やがて、日本の画壇全体で戦争画を描くという波を作り上げる。藤田は、その波に後から乗った画家だったが、誰よりも華麗だった。誰よりも鮮やかに波に乗った。

私は、藤田にも、国民の熱狂を作り出すことに加担したという意味で、罪があったと考えている。しかし、現代の視点で彼の戦争画を見ると、単純な戦意昂揚を狙っただけの絵ではないとも感じる。彼の戦争画は、人間の業としての戦争を、人類の“闇”を捉えようとしていた。今回あらためて、その“闇”に手を伸ばしてみたい。 [劇作家より]