芥川(間所)紗織の、『生誕100年記念 軌跡を回顧する旅』展を、東京国立近代美術館で。


この芥川(間所)紗織という画家の存在は知りませんでした。


『ハニワと土偶の近代』展で、

世田谷美術館所蔵の『古事記より』(1957)を見て。


さらに、『生誕100年記念 軌跡を回顧する旅』での、展示されている作品を見て。


その存在が、その作品が、心にストンと入って来ました。














山田紗織は、1924年、愛知県出身。
音楽家の芥川也寸志と結婚して、芥川紗織。
しかし、1957年離婚し。
建築家の間所幸雄と1963年再婚して、間所紗織。
1966年妊娠中毒症のために、亡くなります。

離婚後、アメリカに行き。
作風が大きく変わります。
展示室にも、渡米前と、渡米後の、作品がならび。
その作風の変化の大きさに驚かされます。

今年、再評価の年なのでしょうか。
10の美術館が、『芥川(間所)紗織』を取り上げ、展覧会が開催されました。

川崎市岡本太郎美術館から開催がはじまり。
この東京国立近代美術館で終わりました。

通常、
『芥川(間所)紗織』と表記されるそうです。

以下は、『芥川(間所)紗織』の公式サイトから。

芥川(間所)紗織 あくたがわ(まどころ)さおり1924.5.24-1966.1.31は愛知県渥美郡高師村(現・豊橋市)出身の画家。1950年代を中心に、当時はほとんどいなかった前衛の女性画家の一人であり、また「染色」という全く独自の技法で道を切り開いた作家である。

来歴

芥川(旧姓・山田)紗織は、1924(大正13)年、愛知県渥美郡高師村(現・豊橋市)に生まれる。東京音楽学校(現・東京藝術大学)本科声楽部を卒業後、作曲家の芥川也寸志と結婚する。しかし、結婚後は、家で歌を歌うことを遠慮し、声楽の道をあきらめる。そして彼女は、女学校時代に描いていた絵画を再び始めるのである。猪熊弦一郎の研究所に通って油絵を、ろうけつ染めを野口道方について学ぶ。

1953年、赤穴桂子のすすめで第17回新制作協会展に出品するが、入選はせず。

1954年、第6回日本アンデパンダン展に出品。第4回モダンアート協会展に《女》などを出品、新人賞受賞[3]。女流七人展を安部真知、織田リラ、小串里子、オノサトトモコ、草間彌生、森慧と開催。夫とともに中国、ソ連、東欧を数か月旅行する。この時のソ連訪問がきっかけとなって民話をテーマに作品を手がけるようになる。

1955年、岡本太郎の勧めにより、吉仲太造、藤沢典明らと共に二科会に移る。第40回二科会岡本太郎室(第9室)に《女B》、《女XI》等の染色を出品して特待賞受賞。9月にメキシコ美術展が開催され、感銘を受ける。「前にタマヨの絵を美術雑誌の原色版で見て、そのまか不思議な色彩にひどく惹かれました」と発言。村松画廊で個展を開催し、《民話ククノチ》と《イザナギノミコトの国造り》を出品。神奈川県立近代美術館の「今日の新人・1955年展」に《入水する弟橘比売命》《天をつきあげるククノチ》を出品。

1956年、サトウ画廊で行われた第1回4人展を池田龍雄、河原温、吉仲太造と開催。岡本太郎が主宰する「現代芸術研究所」のメンバー(芥川、難波田龍起、福島秀子、藤沢典明、建畠覚造、吉仲太造)が呉服問屋からの注文で、浴衣をデザイン、販売される。二科春季展に《大木ニハサマレタ若い神》を出品。第41回二科展に《神話 神々の誕生》を出品。第2回4人展を池田龍雄、河原温、吉仲太造と開催し、《神話より》を出品。

1957年、村松画廊で第3回個展を開催し、《古事記より》を出品[8]。芥川也寸志と離婚。

1959年、伊勢湾台風の荒れ狂う中、アメリカに出発。ロサンゼルス・アートセンタースクールにてグラフィックデザインを学ぶ。ロス・カウンティミュージアム公募展に入選する。

1960年、ニューヨークに到着。第14回女流画家協会日米交歓展(ニューヨーク・リバーサイド美術館)に桂ユキ、村尾隆栄、草間彌生とともに在米出品者として参加(山田紗織の名で)。ニューヨーク、アートステューデントリーグのウィル・バーネット教室にて油彩を学ぶ(1962年まで)。

1962年帰国。昭和画廊で第4回個展を開催し、渡米中の作品を出品。

1963年、第17回女流画家協会展に《黒いシェープB》を出品。建築家・間所幸雄と結婚。

1965年、第19回女流画家協会展に《スフィンクス》を出品。

1966年、妊娠中毒症のため病死。