6月19日(水)、 六月大歌舞伎の夜の部を見ました。

24日(月)が、千穐楽。


最初の演目は、『南総里見八犬伝』。その『円塚山の場』。


里見家滅亡の時、8つの水晶玉が、空中に飛び散り。

それぞれの『玉』を持つ八犬士。


「今回上演する『円塚山の場』は(犬山)道節を中心に『仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌』の文字の入った各々の玉を持ち、扮装も趣向を凝らした八犬士が見せるだんまりの、視覚的、様式的な美しさが眼目。爽やかな顔合わせで、動く錦絵と称される歌舞伎味溢れる名作をご覧いただきます。」(チラシ)


曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』。

そこから、多くの舞台が生まれていますが。

これも、その中のひとつ。


今回は、『円塚山の場』。一場だけ。およそ30分の上演時間。


前半は、網干左母二郎(巳之助)の、浜路(米吉)殺し。

凄惨な殺しの場面の美しさ。


後半は、その左母二郎を討つ犬山道節(歌昇)。その時に、里見家再興のために不可欠な名刀村雨丸を手に入れて。


すると、そこに、次々と犬士たちが姿をあらわし。


そして、『だんまり』へと。


『だんまり』というのは、

「歌舞伎狂言・演出の一種。暗闇の中で黙ってさぐりあう場面が様式化したもの。〈時代だんまり〉と〈世話だんまり〉がある。」

「用語としての定着は文化年間(1804-18)になるが、様式的には安永年間(1772-81)に江戸の顔見世狂言で初世中村仲蔵らが確立。」

「(略)山中の古社など不気味な場所で出会い、手さぐりで宝物などを奪いあうといったもの。この場での出来事がのちの事件の展開の発端となる。」

(『歌舞伎事典』平凡社。古井戸秀夫記述。)


役者たちの、『顔見世』であるとともに、その後の展開の予告であるとともに、それぞれの関係の提示でもある。


で、今回は、犬山道節(歌昇)、犬村角太郎(種之助)、犬坂毛野(児太郎)、犬川荘助(染五郎)、犬田小文吾(橋之助)、犬塚信乃(米吉)、犬飼現八(巳之助)の八犬士が、それぞれの衣裳で、次々に登場し、暗闇のなか、村雨丸が、手から手へ。


『だんまり』は、歌舞伎で、よく使われる演出ですが。

しかし、おもしろいと思ったことが少なくて。

一番は、暗闇のなかであるという、緊張感が伝わって来ず。

いわば、『だんどり』の通りに動いていく『だんまり』にしか見えないということなのです。

そして、そのためもあり、彼らが背負っている『物語』が見えて来ないということなのです。


暗闇のなか、登場人物たちは、互いの存在を見ること、確認することが出来ない。

それを観客が見ている。


ピーター・シェーファー(1926~2016)の戯曲に、『ブラック・コメディ』(1965)という作品があり、舞台、停電中は明るくて、電気がつくと暗くなるという、作品がありますが。

観客は、停電中で真っ暗になっている舞台を、照明のなかで見るのですが。

おもしろい作品です。

劇団四季は、1970年に初演。再演を重ねて。

この夏、8月17日から、浜中文一を主演に、IMM THEATER で上演とのことですが。


渡辺保のサイト、『歌舞伎劇評』 を読むと。

「これだけ(役者を)無理に揃えても、相変わらずだんまりは暗闇を少しも感じさせず、怪人たちが公園を散歩している如くである。」

と。


繰り返しますが、そのために、そこに『物語』を感じることが出来ず。


次の演目は、『山姥』。

能に、世阿弥作の『山姥』があり。

近松門左衛門に、『嫗山姥』があり。正徳2(1712)年、竹本座初演。


山姥に育てられ、足柄山で熊と遊んでいる怪童丸。

そこに、ひとりの山樵が現れて。

この山樵は、実は、主君・源頼光の命で家来にふさわしい武者を探して都から来た武将・三田の仕(つごう)。

怪童丸は、都で召し抱えられることになり。


初代中村萬壽襲名披露狂言で、劇中で、口上。


山姥を、時蔵改め萬壽。

怪童丸、後の坂田金時を、初舞台の梅枝。

白菊を、梅枝改め時蔵。


源頼光を、獅童。

渡辺綱を、初舞台の陽喜。

卜部季武を、初舞台の夏幹。


と、小川家の、襲名、初舞台の重なったおめでたい舞台。


そこに、歌六、又五郎、錦之助も加わり。


口上の挨拶は、藤原兼冬の、菊五郎。

台詞も、口上の挨拶も、堂々としていて。

その活力に安心するとともに。

御簾があがっての登場から、そのまま口上の挨拶。

と、座ったまま。

それでも、その姿を確認することが出来て、よかった、よかったです。


最後の演目が、河竹黙阿弥作の、『新皿屋鋪月雨暈(しんさらやしき つきのあまがさ)』。

通称『魚屋宗五郎』。

1883(明治16)5月、市村座初演。


魚屋の宗五郎は、妾奉公に出した妹のお蔦が、不義の疑いから、主人・磯部主計之助に責め殺され、井戸に投げ込まれたという、無惨な死を知り、断っていた酒を飲み、その勢いで、磯部の屋敷に乗り込み、という物語。


禁じていた酒を飲みはじめ、やがて酩酊し。

という、その過程のおもしろさ。

そこに、宗五郎役の腕の見せ所があります。


今回は、獅童の宗五郎。

エネルギーがあふれていて、酒の酔いが、急速に爆発していくようで。


お蔦が妾奉公することにより、借金に苦しんでいた家は、しっかりとした店構えの店となり、月々、一定の『給付金』ももらえ。経済的に安定。

これも、すべて、『磯部様』のおかげ。

つまり、この宗五郎の家族は、磯部の家に支えられていて、そこに、『恩義』があるのです。


それをふっ切るのが、酒の力。


その酔いのなかで、押さえ込んでいた怒りと悲しみが燃え上がり。

という、過程がどのように描かれるか。


例えば、菊五郎演じる宗五郎は、内から吹き上がって来るものを、抑えに抑え。


で、獅童の場合は、その『溜め』がなく。


もちろん、いろいろな演じ方があるわけですが。


女房おはまを、七之助。

小奴三吉を、萬太郎。

父太兵衛を、権十郎。


そこに、酒を届ける丁稚を、陽喜と、夏幹。

ふたりの登場に、観客からの大きな拍手。


磯部主計之助を、隼人。


などなど。


磯部の屋敷に乗り込んだものの、最初は勢いのあった宗五郎。

しかし、酔いが覚めるとともに、自分の仕出かした一大事に、シュンとなってしまい。


しかも、主計之助に、すまないと、頭を下げられると。


そこに、『庶民』の限界があり。

『身分制度』の枠があり。

言い換えるならば、社会改革へと進む道筋は、はじめからなく。


お家乗っ取りをたくらみ、主計之助を酒乱にし、また、密談を聞かれたお蔦を罠にかけて、主計之助に殺させた『悪』は滅んで、めでたし、めでたし。


宗五郎一家の経済的安定も、あらためて約束されて。


と、意地悪な見方をしてしまいましたが。

庶民が、酒の力に頼らないと、モノが言えない。

酔いが覚めると、ひたすら頭を下げるしかない。

という『現実』が、悲しいのです。


それにしても、『萬屋』という家に生まれながら、しかし、しっかりとした後ろ楯を持っていなかった獅童が、さまざまな引き立てがあったにせよ、舞台で主役を演じ、息子ふたりの初舞台も披露。

よくぞ、ここまで、名前を大きくしたと、感慨深いものがあります。

これからますます、その名前を、確固たるものにしていくはず。

期待、大です。












祝幕。