新国立劇場小劇場で、『デカローグ』第1話から10話の、連続公演が行われています。
5月22日(水)、第5話『ある殺人に関する物語』と、第6話『ある愛に関する物語』を見ました。
この第5話、第6話の公演は、6月2日(日)で終了しています。
クシシュトフ・キェシロフスキ、クシシュトフ・ピェシェヴィチ脚本。
クシシュトフ・キェシロフスキ監督による『デカローグ』は、1988年のポーランド映画。10話からなる物語。
そのうちの第5話『ある殺人に関する物語』と、第6話『ある愛に関する物語』には、単独で上映されたロング・ヴァージョンがあります。
この2作品を公開することで、経済的裏付けを得て、10話からなる『デカローグ』の公開への道を開こうとしたためです。
で、一般向け?にするために、『デカローグ』における第5話、第6話と、それぞれのロング・ヴァージョンとでは、その構成やラストに違いがあります。
そして、舞台版として、久山宏一の訳、須貝英の上演台本、小川絵梨子・上村聡史演出の、新たなるヴァージョン。
第5話『ある殺人に関する物語』。
『十戒』の、『あなたはなにものも殺してはならない』
キェシロフスキは、この作品について、
「この作品は、タクシーの運転手を殺す少年と、その少年を殺す法律についての物語である。」
として、
「映画の筋について言えることは、これくらいしかない。なぜ、少年がタクシー運転手を殺すのかわからないからだ。社会がなぜ少年を殺すのかという法的理由はわかっているが、本当の意味での人間的理由はわからないし、いつになってもわかることはない。」(映画のプログラムに引用された『キェシロフスキの世界』河出書房新社から)
20歳のヤツェク(福崎那由他)は、タクシー運転手のヴァルデマン(寺十吾)を、殺して、金を奪う。
しかし、ヤツェクにとって、相手はヴァルデマンでなくてもよく、たまたま、ヴァルデマンのタクシーに乗ったことからの殺人。
ヤツェクは、アパートの上階から、人や車に、モノを落としたり。老婆がエサを与えていた鳩を蹴散らすなど、迷惑行為をする若者。
仕事もなく、金もなく。社会に対する不満、鬱積する思いを抱いて。
一方の、殺された運転手ヴァルデマンについて、チラシでは、
「傲慢で好色な中年の運転手」とされていますが、確かに、そうした面もありますが、そうでない善良な部分もあり、むしろ、どこにでもいる、当たり前の人物。
たまたまふたりは出会い、殺人者と、その被害者に。
殺人の罪で裁判を受け、殺人罪として死刑判決のくだったヤツェク。
その弁護を担当したのが、新米弁護士のピョトル(渋谷謙人)。
死刑制度に疑問を持つ彼は、自らの力のなさから、死刑判決になったのではないか、と。
そして、死刑執行。
映画のロング・ヴァージョンでは、運転手の殺害場面では、7 分ほど。
この死刑執行の場面では、5分ほどの時間をかけて。
丁寧に、なまなましく、その過程を描き。
今回の舞台ヴァージョンでは、舞台に絞首刑のセットを組んで、リアルに。
キェシロフスキの言葉。
「過去は決して過去のものとはなり得ない。過去は常に現在と関わっているのである。何故ならそれは、我々の運命を決定し続けるちょっとした偶然の積み重ねによって構成されるからである。」
として、
「私はいつも登場人物たちについての、映画に描かれる以前のエピソードを思い描き、映画の中ではあたかもそれが偶然であるかのように少しずつちょっとした必然を織り込んでいくのである。」(映画プログラム)
その言葉が、舞台を見ながら、あらためて思い起こされて。
例えば、ヤツェクが、背中に負っている『以前のエピソード』。
処刑前、ヤツェクは、弁護士のピョトルに、自分の埋葬に関して、母親に頼んでほしい、と。
父親の墓の、空いているひとつ、本来、母親のための墓を、自分に譲ってほしい、と。
墓は、3人分あり、父親がすでに埋葬されていて。
では、もうひとつの墓には、誰が埋葬されているのかというと、12歳の時に、トラクターに轢かれて死んだ妹が。そして、その事故には、ヤツェクも関わっていて。
映画のシナリオには、
「もし妹が生きていたら、こんなことにはならなかった。ぼくは村を出なかったと思うんです。…ぼくの妹…男の兄弟は4人いますが、女の子はたった1人でした。妹はぼくを慕っていて、ぼくも妹が大好きだった…こんなことにはならなかったんです、きっと…」
こうしたヤツェクの『背景』が、しっかりと見えて来ることにより、作品世界の深みが増すと思うのですが。
それは、同じく、新米弁護士のピョトルにしても。
絞首刑の場面、客席が息を飲んで。
という、客席側の緊張感もありました。
それだけに、登場人物たちについて、その存在の薄さが気になりました。
で、休憩をはさんで。
第6話『ある愛に関する物語』。
『十戒』の、『あなたは姦淫してはならない』
これは、まず、映画のプログラムの『解説』を。
この『デカローグ』のプログラムは、シナリオが掲載されていることも含めて、中身の濃いプログラムで、今回、引っ越しをするにあたり、多くのプログラムを処分したのですが、この『デカローグ』のプログラムは、大切に手もとに残してあります。
解説です。
「孤児院で育った19歳のトメクは、家を離れている友人のうちに間借りして、彼の母親と暮らしている。語学を勉強するのが趣味という内向的な彼にはガールフレンドもいないが、一年ほど前からひとりの女性をみつづけていた。そのひとは、向かいのアパートの一室に住んでいる魅力的なアーティスト、マグダ。トメクの部屋からは彼女の部屋を覗き見ることが出来る。双眼鏡ではもの足りなくて、最近、望遠鏡を盗んできた。マグダの部屋には次々と恋人たちが出入りするが、彼女の孤独もトメクはみつめている。(以下 略)」
トメクは、マグダに無言の電話をかけたり。
郵便局に勤めているのを利用して、偽の為替通知を送ったり。(郵便局の窓口にマグダが来るようにと)
また、マグダに会えるならと、早朝の牛乳配達をしたり。
トメク(田中亨)の孤独。
マグダ(仙名彩世)の孤独。
そして、トメクが下宿暮らしをしている、友人の母親マリア(名越志保)の孤独。
トメクは、マグダの孤独に気づき。
マグダは、やがて、トメクの孤独を知る。
で、どうなるのか。
映画のロング・ヴァージョンと、『デカローグ』のなかの第6話とでは、ラストが異なっています。
では、この舞台ヴァージョンでは?
再び、キェシロフスキの言葉、
「その恋が成就するか否かは大した問題ではないのだ。重要なのは主人公の変化である。試練を乗り越え、トメクとマグダは成長したのである。」(映画のプログラム)
すでに、舞台の上演が終了しているので。
違いは、映画のロング・ヴァージョンでは、トメクとマクダの間に、つながりの可能性を示す、開かれた終わり方。
一方、『デカローグ』と、舞台では、マクダを拒絶するトメクの、もう覗きはやりませんという言葉で終わって。
それにしても、思うことは、舞台の上に、立体の存在として立つことの難しさ。
『過去』を持たないことの、存在としての薄さ。
舞台を重ねて来た俳優の、その力量と、ついつい比較してしまうのですが。
しかし、舞台に立つ以上は、経験の深さ浅さは関係がなく。
ということなども考えて。
映画と舞台の、ふたつの『世界』を行き来しつつ。