『デカローグ』の上演がはじまりました。
『デカローグ』というのは、ポーランドの映画監督のクシシュトフ・キェシロフスキ(1941~1996)が、1988年に公開した、10の物語からなる作品。
『デカ』が『十』で、『ローグ』が『言葉』。
モーゼの『十戒』。
旧約聖書の『出エジプト記』のなかに描かれています。
映画で、『十戒』を見ています。
1956年に製作された作品で、監督はセシル・B・デミル。
主人公のモーゼを、チャールトン・ヘストン。
他に、ユル・ブリンナー、アン・バクスターなど。
まさに、『スペクタクル史劇』。220分の超大作です。
海が割れて(紅海です)、その間を、人びとが歩いての逃避行。
もちろん、公開時に見たのではなく、リバイバル公開の時に。
リドリー・スコット監督の『エクソダス:神と王』(2015年公開)も、モーゼを描き、クリスチャン・ベイルがモーゼを。
ただ、こちらは見ていません。
無事に脱出したヘブライの民に、モーゼを通して授けた、神の教え。
その十戒を、それぞれの作品の基軸にして、10の物語。
ひとつの作品がおよそ1時間弱。
第一話『ある運命に関する物語』
(デカローグ1:あなたは私の他になにものも神としてはならない)
第二話『ある選択に関する物語』
(デカローグ2:あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない)
第三話『あるクリスマス・イヴに関する物語』
(デカローグ3:安息日を覚えてこれを聖とせよ)
第四話『ある父と娘に関する物語』
(デカローグ4:あなたの父と母を敬え)
第五話『ある殺人に関する物語』
(デカローグ5:あなたはなにものをも殺してはならない)
第六話『ある愛に関する物語』
(デカローグ6:あなたは姦淫してはならない)
第七話『ある告白に関する物語』
(デカローグ7:あなたは盗みをしてはならない)
第八話『ある過去に関する物語』
(デカローグ8:あなたは隣人について、偽証してはならない)
第九話『ある孤独に関する物語』
(デカローグ9:あなたは他人の妻を取ってはならない)
第十話『ある希望に関する物語』
(デカローグ10:あなたは隣人の家をむさぼってはならない)
※映画『デカローグ』のプログラムから。
という10の物語からなる作品。
このうち、第五話と、第六話を再編集し、ロング・ヴァージョンとして公開されたのが、
『殺人に関する短いフィルム』
『愛に関する短いフィルム』
の2作品。
そこに描かれた我々の日常生活。
その日常生活にある、生と死。それにからむ愛やら、裏切りやら。
「人生のすべてが詰まっている『デカローグ』」と、映画監督の石川慶の言葉。
(新国立劇場の、舞台版『デカローグ』のプログラム)
確かに。
ひとつひとつの物語が、重たく胸に落ち込んで来て。
忘れられない作品となっています。
キェシロフスキの作品、
『ふたりのベロニカ』(1991)
『トリコロール/青の愛』(1993)
『トリコロール/白の愛』『トリコロール/赤の愛』(1994)
も、それぞれ、記憶に残っています。
キェシロフスキの言葉によると、
『十戒』を、誰か映画にしてくれないかと言ったのは、友人の弁護士で、共同脚本に名を連ねているクシシュトフ・ピェシェヴィチ。
「1980年代半ばのポーランドは、どこもかしこも混乱と無秩序が支配していた。何もかも、果ては個人の生活まで混沌としていた。緊張、絶望、もっと悪くなるのじゃないかという恐れが、はっきりと読みとれた。この頃になると、私は多少、外国に足を運ぶようになっていたから、世界的に不安が広がっているのを肌で感じていた。ポーランドの政治のことは考えなくても、普通の日常生活のことは考えていた。慇懃な笑顔とは裏腹に相互の無関心を感じ取っていたし、なぜ生活しているのかよくわからないような人々の姿を見かける機会が徐々に増えていることに強い印象を受けていた。」
(映画『デカローグ』のパンフレットに掲載された、「キェシロフスキ、『デカローグ』を語る」より)
そこで、
「『十戒』の一つで一本の映画を作って全体で十本の連作」の考え方が浮かび。
「若い映画監督の処女作製作を援助する」ために、「ポーランドでは昔から、映画監督はテレビ映画でデビューすると相場が決まっていた」(「テレビ映画は短く、安上がりだから、それだけリスクも少ない」)ので、
「シナリオを十本書いて、それを『デカローグ』という題名で製作すれば、十人の若い監督にデビューを飾らせてやることができると考えた」が、
「シナリオの第一版ができあがると、わがままになって、シナリオをほかの人間に渡したくないと思うようになった。」と。
で、
「十作とも自分で監督することにした。」
この、プログラムに掲載された「キェシロフスキ、『デカローグ』を語る」は、キェシロフスキがその生い立ちから『トリコロール』までのことを語った『キェシロフスキの世界』(河出書房新社刊)から、『デカローグ』の項を抜粋したもの。
プログラム自体、『デカローグ』十作のシナリオも載せてあり、内容が濃く、手元に置いてあります。
1996年1月20日刊。
発行は、『(有)シネカノン』。
定価が1500円。
今回、新国立劇場での上演にあたって、芝居を見たあとに、確認のために読み返しています。
で、新国立劇場での上演。
原作 クシシュトフ・キェシロフスキ、クシシュトフ・ピェシェヴィチ。
翻訳 久山宏一。
上演台本 須貝 英。
それを、小川絵梨子と、上村聡史が演出を。
新国立劇場 演劇芸術監督の小川絵梨子の、『デカローグ』の紹介を、チラシから。
「人への根源的な肯定」との題名で。
「『デカローグ』は人生と愛についての連作作品です。十篇がそれぞれ独立した作品でありつつ、登場人物はみな同じ団地の住人であることから互いに繋がってもおり、十篇が壮大な一つの物語ともなっています。登場人物たちは皆、どこにでも存在し得る隣人として描かれており、日常を生きる中で一つ一つの選択に悩み、葛藤し、時には失敗をしたり後悔もします。また、どの選択が正しかったのか振り返った時にも分からず、曖昧で孤独な不安の中に取り残される事もあります。各エピソードは十戒をモチーフにしていますが、決して人間を裁き断罪する物語ではなく、寧ろ、人間を不完全な存在として認め、その迷いや弱さも含めて向き合うことを描いた物語となっています。そこには正解もハッピーエンドもないかもしれませんが、人をそのままに見つめ寄り添う視点の奥底には、人への根源的な肯定と愛が流れているように感じます。
(以下 略)」
長い長い引用になりました。
しかし、この言葉が、『デカローグ』という作品の、全体の『地図』となっている、そう思い、引用しました。
舞台版も、十話、見ます。
舞台版のチラシ。