2月28日(水)、東演パラータで、劇団東演の『人民の敵』を、見ました。
(3月3日(日) までの上演)
ヘンリック・イプセンの作。
翻訳は、毛利三彌。
演出は、西川信廣。
『人民の敵』、『民衆の敵』とされることもありますが。
イプセン(1828~1906)の、1882年の作品。
『近代演劇の父』といわれるだけあり、彼の多くの作品が、上演され続けています。
たとえば、この『人民の敵』の前後には、
1879年の『人形の家』。
1881年の『幽霊』。
1884年の『野鴨』。
などなど。
この『人民の敵』、または『民衆の敵』も、これまでの舞台を見て。
また、1978年の、スティーブ・マックイーンが、その私財を投じて、製作総指揮をとり、主演した映画も。
監督は、ジョージ・シェーファー。
主人公のトマス・ストックマン(能登剛)は、医師であり、町の温泉専属医。
町が、経済成長の中心として期待する『大温泉郷・ヘルスセンター』の温泉が、汚染されていることに気づき。
しかも、妻(中花子)の養父(星野真広)の経営する、なめし皮製造の工場からの廃液が、町全体の水をも汚染していると。
そのことを、兄で、町長をしているペーター(豊泉由樹緒)に告げ、それを聞きつけた『人民日報』の編集長ホヴスタ(南保大樹)、記者ビリング(小泉隆弘)も、取材に来て。
見始めて、『違和感』を。
それは、これまでの『人民の敵』とは異なる味つけを感じ。
それは、『軽み』というか、滑稽味というか。
というのも、これまでの舞台は、映画もですが、町全体を相手に、孤軍奮闘する、『正義感』にあふれた人物を主人公とした、『殉教劇』(劇場で配布されたプログラムのなかの、翻訳者毛利三彌の言葉)だったからです。
もちろん、『味つけ』、つまり『解釈』は多様であり、美味しければ、それで満足なのです。
プログラム、劇場に入ると、椅子の上に置かれてあり。
しかし、事前に見ることはしないので、観劇後に、読みました。
それによると、
「町の温泉汚染を告発する主人公は、街を破壊するものとして〈人民の敵〉と罵られるが、四面楚歌の中で、『独りで立つものがいちばん強い』と我が道を行く決意を示す。ある意味で、単純明快に体制批判、自由希求の劇として、モスクワ芸術座のスタニスラフスキーは、カザフスタン暴動のあとの上演で観客の熱狂をよび、アーサー・ミラーは戦後アメリカの赤狩り旋風をうけて、殉教者的な主人公を作りあげた。」
「だが、よく読んでみると、これは、そう単純な殉教劇ではない。」
として、
「この劇の主人公には、いささか滑稽なところがある。彼の汚染告発は、(中略)町も、国さえも破壊しろと叫びだす。すべては、そう簡単ではないのだ。この劇には、社会の近代化に伴う諸々の矛盾、軋轢を呼ぶ問題が込められている。」
(前掲 毛利三彌)
スティーブ・マックイーンの映画も、アーサー・ミラーが翻案した戯曲を原作としていて。
で、主人公のトマス・ストックマンを演じたマックイーンは、そのメイクもさることながら、重たく重たく、次第に深みにはまっていくように、演じていて。
で、今回の、劇団東演の舞台です。
産業廃棄物による汚染水。
それは、温泉施設だけではなく、町の人々の生活、健康に関わる重大問題。
そうした環境問題や。
さらには、職業差別の問題。
公教育の問題。
ジャーナリズムの問題。
そして、少数意見と多数意見に関わる民主主義の問題。
などなど。
多くの問題が提示され。
それらへの『滑稽味』の味つけ。
それをおもしろいと思いながら。
ただ、人民集会。
その場面では、『滑稽味』の味つけが、大量の人工調味料によりなされていて。
喉ごしに、ざらつきが。
その後の、ストックマン家への、集団行動も。
つまり、『無名の』人民の描き方。
その『圧力』が、描ききれていない、と。
で、
チラシにも、プログラムにも記されている、トマス・ストックマンの言葉。
それは、舞台上でも繰り返され。
いわば、ストックマンの、到達点なのですが。
「この世で一番強い人間は、まったくの独りで立っている人間だ!」
この言葉を、どのように受け止めたらいいのか。
その言葉とともに、妻と、娘を、その腕で支えているのですが。
『民主主義』の根底を否定しているような。
それとも、そこに、ストックマンの、『独善性』を見て、この作品の『喜劇的』味つけを思えばいいのか。
と、あれこれと。
また、
現代の日本における、『多数派』。
『人民』が、それを生み出し。
『ジャーナリズム』は。
と、あれこれと考えて。
翻案の毛利三彌さんの論文。
「イプセン作『人民の敵』 異文化社会学的視点」(成城大学)
この舞台を見終えて、読みました。
非常に、示唆にとんだ論文で、学ぶことが多々あり。
検索すれば、直ぐに。