2月22日(木) の歌舞伎座。


猿若祭二月大歌舞伎。その昼の部。


十八代目中村勘三郎。

十三回忌追善。


『記憶に残る』役者。

今も、その舞台姿。

その声が。


かつて、十八代目勘三郎の台詞を耳にすると、その父親の十七代目の『声』『姿』が浮かび。

そして、今、勘九郎の台詞を聴くと、その父親の十八代目を、さらには、十七代目を思い出します。

『中村屋』の流れ。


で、最初の演目は、

『新版歌祭文』。

そのうちの、『野崎村』。


近松半二(1725~1783)の作。

安永9(1780)年、竹本座初演。

上の巻。『野崎村』


野崎村の百姓久作(彌十郎)の娘お光(鶴松)と、養子久松(七之助)との祝言も間近に。

しかし、久松は、奉公先の油屋の娘お染(児太郎)と恋仲になり、お腹には子どもまで。


その三角関係。


田舎の娘か、都会の娘か。


個人的には、お光の方を贔屓してしまうのですが。


奉公先の娘と出来てしまうのは、ご法度の時代。


一緒になれないのなら、死のうと言い交わしていて。


今回は、お光を、中村鶴松。

大抜擢。


中村屋の部屋子として、十八代目に鍛えられ、可愛がられ。

3番目の子どもとして、一門を支えるまでに。


で、お光が、髪をおろして、身をひいて。

なにも、そこまですることはないと思うのですが。

しかし、それほど、久松を慕う気持ちが強いということで。

幼いころから、久松のお嫁さんになること、そのことだけを考えて来て。


人気狂言で、繰り返し演じられて。


これまでに、いろいろな役者の、お光やお染、久松を見て来ましたが。

鶴松のお光は、一生懸命に演じていることで、その『けなげさ』、その純情、素朴さがあらわれて。


で、有名な幕切れ。


船で帰る、お染と、その母。東蔵が演じて。

駕籠で帰る、久松。

それを見送る、お光と、その父の久作。


船の姿も、駕籠の姿も、遠く去り。


残されたお光と、久作。


その孤独感、寂寥感が、客席にも満ちて、空気が緊張して。


その空気を壊したのが、『大和屋』との、かけ声。

しかも、気合いもなにもない、ただの『声』。下手なかけ声。


『場』を、わきまえろ、と。


かけ声を、ひとくくりに批判するつもりはないのですが、不勉強なかけ声や、訓練されていないかけ声には、腹が立つのです。


お光が身をひいて。

お染と久松、めでたし、めでたしかというと、そうではなく。


下の巻『長町の段』『油屋の段』『蔵場の段』が演じられると、その行く末がわかります。


もともと、宝永7(1710)年、久松と、お染の心中事件があり、それを題材として、多くの『お染久松』物が作られて。


次の演目は、『釣女』。


狂言の『釣針』から。


これも、よく演じている作品です。


妻を得たいと願う大名(萬太郎)が、供の太郎冠者(獅童)とともに、西宮の戎神社へ。

ここは、縁結びの神様として、よく知られているとか。


1月10日の、『走り参り』が有名です。


で、夢のお告げで、大名が釣竿をさげると、美しい女臈(新悟)が釣れ。


で、太郎冠者が、我もと、釣竿をさげると、醜女(芝翫)が。


という物語。


女性を『釣る』だとか、『醜女』を笑い者にして、見た目での判断をする、つまり『ルッキズム』だとか、問題ありと指摘されれば、それまでなのですが。


『醜女』は、それを強調するために、『立役』が演じることに。


客席は、大笑い。

その前提として、

私は、そこまでひどくはない、という思いが?


最後の演目が、『籠釣瓶花街酔醒』。


これも、享保年間の『吉原百人斬り』という事件があり。


作者は、3代目河竹新七。


1888(明治21)年5月の、東京千歳座が初演。


やはり、繰り返し演じられています。


今回は、勘九郎が、佐野次郎左衛門を。

七之助が、兵庫屋八ッ橋を。

それぞれ、初役で。


父の勘三郎も、次郎左衛門を演じることが多く。

その時の、八ッ橋は、玉三郎が。


序幕『吉原仲之町見染の場』より、

大詰『立花屋二階の場』まで。


下野佐野の絹商人である次郎左衛門が、吉原を見物し、そこで、花魁道中に出くわし、兵庫屋の八ッ橋に一目惚れ。

で、通い続け。

身請けの話しとなり。


しかし、八ッ橋には、繁山栄之丞という『男』がいて。

その栄之丞を、仁左衛門。

それこそ、絵に描いたような。


で、八ッ橋からの愛想尽かし。


で、4ヶ月ほどして、再び、次郎左衛門は、吉原に。


冒頭の、見初めの場。

田舎からの不粋な人間だった次郎左衛門が、吉原での遊びも洗練されて。

その『変化』に、戸惑いもあるのですが。


そして、4ヶ月。

佐野での生活を整理して、吉原に。


手にした妖刀『籠釣瓶』。

抜くと、人を斬りたくなるという妖刀。


勘九郎の、佐野次郎左衛門に、堪能しました。

父の勘三郎と、声質などは似ていて。しかし、役者としての資質は、異なっているような。

勘三郎よりも、硬質感を感じるのです。

ですから、芯のある役、骨のある役など、役に広がりがあるのではないかと。


七之助の八ッ橋は、栄之丞への思いの強さ、その一直線さ。


いろいろな八ッ橋があっていいのです。


役者もそろい。


釣鐘権八を、松緑。

兵庫屋九重を、児太郎。

立花屋長兵衛を、歌六。

立花屋女房おきつを、時蔵。

など。


いい舞台でした。





篠山紀信による写真撮影。

今年の1月4日に、亡くなって。

いわば、篠山紀信の最後の作品。

彼は、玉三郎をはじめとして、多くの写真を撮り。






中村屋の常式幕。





『籠釣瓶』の、見染の場です。