12月23日(金)、神奈川芸術劇場で、『ジャズ大名』を見ました。


時間が経ってしまいましたが、備忘録として。


原作は、筒井康隆。


福原充則と、山西竜夫の上演台本。

それを、福原充則自身の演出で。


音楽は、関島岳郎。

振付は、北尾亘。


1986年には、岡本喜八監督、古谷一行主演で映画化され。


今回は、「小説から新たに上演台本を書き起こし、物語の舞台を原作の九州の小藩から、実在した神奈川・小田原藩の支藩、荻野山中藩に置き換え」て。


江戸末期、アメリカから日本に漂着した黒人たちと出会った、藩主・大久保教義が、「彼らの奏でる音楽の虜となり」、城中でのジャムセッション。

(チラシからの引用)


で、

「幕府と薩長の戦い、大政奉還、庶民による『ええじゃないか』運動といった混沌とした世の中の動きと共鳴するように、ジャズ演奏が延々と繰り広げられる。」

(読売新聞夕刊 2023年11月28日)


その記事を続けると、

「終盤は大勢の出演者が様々な楽器を持って動き回り、全員トランス状態になる」と。


物語は、

「維新の嵐が吹き荒れる江戸末期、アメリカの南北戦争が終結し、解放された黒人奴隷が故郷のアフリカを目指して船に乗り込むが、日本の小藩ぬ流れ着いてしまう。鎖国の世、外国人の取り扱いに困る藩の役人らは彼らを閉じこめておくが、好奇心旺盛な藩主は彼らの奏でる楽器の音に夢中になり、次第に城中を巻き込んでジャム・セッションを繰り広げていく。熱狂はいつまでもいつまでも続き・・・・。」(チラシ)


で、

「幕末にあったかもしれない、人種、文化を超えて熱く交流する歴史の一コマを

、音楽とダンスの狂乱とともに描くコメディが現代の日本を明るく彩ります。ご期待ください!」

との文言。


藩主の大久保教義を、千葉雄大。

彼が、見たことのない楽器、それが奏でる音楽に興味を持ち、先頭に立って、「音楽とダンスの狂乱」を作り出して。


藤井隆演じる、家老の石出九郎左衛門は、それを押し留めようとするものの、その狂乱の渦に巻き込まれて。


時代は、幕末。

各藩は、徳川将軍家を護持する側に立つか、薩長を中心として、天皇を御輿にかついだ側に立つか、その決断を迫られている時。

波乱の時代、その大波に乗るか、溺れるか。判断次第では、藩の消滅につながる局面。


2時間10分の、休憩なしの上演時間。前半と中盤は、ラストの「狂乱」の場に至るまでの、長い助走。


そして、ラスト。

座敷牢という閉ざされた空間でのジャム・セッション。

それが、何日も何日も何日も何日も続き。

もともとの演奏者だけではなく、登場人物たちも、それぞれに楽器を持ち。

「音楽とダンスの狂乱」。

それが、延々と続き。

そこに集約されたエネルギーの大きさ。その破壊力。

演じる者たちによる「狂乱」を、確かに感じました。


そして、ようやく、その「狂乱」が終わった時、すでに、世の中は大きく動いていて、『江戸』の終焉。

『明治』の夜明け。

すっかり疲労し、満足し、その場にへたる人びとを前にして、石出だけが、新しい世の中で、何が生じていくかを、まるで、未来を承知しているかのように予言し。

そのやり取りに、客席からは、笑いがもれ。


確かに、

「人種、文化を超えて熱く交流する」ことはありました。


しかし、

「音楽とダンスの狂乱とともに描くコメディが現代の日本を明るく彩ります。」の文言。

そこに、どうしても、引っかかってしまうのです。


人びとは、その「狂乱」に溺れて、

見なくてはならないものを見ようとしなかった。

考えなくてはならないことを考えようとしなかった。

のでは?

で、その結果は?


そのために、

「音楽とダンスの狂乱とともに描くコメディが現代の日本を明るく彩ります。」

の文言。


この登場人物たちのように、「音楽とダンスの狂乱」に溺れて、「世の中」のことを考えなくていいのだろうか。


「狂乱」とか、「熱狂」なるものが、歴史をどのように作り上げ、多くの悲劇を生み出したことを知っています。


この『ジャズ大名』という作品自体を批判しているのではありません。

むしろ、おもしろおかしく展開しながら、読者は、最後に、自分の立っているところのおそろしさに気づかされる。


「コメディ」は「コメディ」でも、「現代の日本を明るく彩」るものではなく、読者は、鋭い剣を首筋にあてられて。


そして、それは、「現代の日本」にもあてはまることであり。


この、福原充則演出の『ジャズ大名』。

ラストの、藤井隆演じる石出九郎左衛門の言葉に、それまでのすべてを吹き飛ばしてしまうような『破壊力』があったなら、と。


そこが残念でした。







上空には、月が。