5月19日(金)、『菅原伝授手習鑑』を、1部に続いて、2部を見ました。


近松門左衛門が、菅原道真に対する信仰や天神の伝説をもとにして、『天神記』を書いたのが、正徳3(1713)年。

竹田出雲、並木千柳、三好松洛らは、その『天神記』の影響を受けて。


そこに、当時、大坂の天満で三つ子が生まれたという話題を加えて。


『菅原伝授手習鑑』の初演は、延享3(1746)年8月の竹本座。


1972(昭和47)年5月の、国立劇場小劇場での、第22回文楽公演。

『菅原伝授手習鑑』の全段通し。

そのプログラムに、

「今回のような全段通し上演は、天保期以来140年ぶりのことである。」と。


そして、それから51年。

ようやく、再び全段通しの上演が。


となると、次回の全段通しは、いつのことになるのでしょうか?


2部は、2段目からです。

『道行詞の甘替』


『加茂堤の段』で駆け落ちをした斎世親王と、苅屋姫。

桜丸は、ようやく二人にめぐりあい。

で、道真が、太宰府への流罪のために、津の国安井で、船の汐待をしていることを知り、3人は、摂津安井へと急ぎます。 


そして、『安井汐待ちの段』。

国立劇場での上演は、51年ぶり。

しかも、前回、復活させたもので、「古い朱」が残っていたので、それをもとに演奏したとのこと。(第22回文楽公演のプログラムを参照) 


安井の岸に着いた3人。道真との対面を願い出ますが、警固の判官代輝国に断られ。

しかも、左遷の原因が、斎世親王と苅屋姫、つまり自分たちにあることを知らされます。

この輝国、情のある人物で、汐待を、土師の里に決めます。

土師の里には、道真の伯母覚寿が住んでいて。

もともと苅屋姫は、覚寿の娘。それが、道真の養女となっていたのです。 


睦  勝平。


『杖折檻の段』

『東天紅の段』

『宿彌太郎詮議の段』

『丞相名残の段』


覚寿。その娘である、立田前と苅屋姫。

そこに、立田前の夫の宿彌太郎と、その父親土師太郎の『悪巧み』が絡み。

道真の木像の『奇跡』が起き。


物語が、一気に膨張し。


神々しい道真。歌舞伎では、13代仁左衛門の姿が。

そして、『三婆』のひとりである覚寿。

「“道明寺”は義太夫中での大物である。菅丞相という神格化された人物が主人公で、しかも親子の別れという最も人間的な悲しみがテーマとなっているところに最高の難しさがあるが、その他にも三婆の一つである覚寿などが登場して、さらに難曲にしている。」(第22回文楽公演のプログラム『鑑賞ガイド』)


あらためて、51年前を見ると、

『安井汐待の段』 呂太夫 清治

『杖折檻の段』  咲太夫 燕三

『東天紅の段』  小松太夫 清治

『丞相名残の段』 越路太夫 喜左衛門


今から振り返ると、そうそうたる顔ぶれ。

しかし、その豪華さが、当時は、よくわからなかったのです。


呂太夫、咲太夫、燕三は、先代です。


で、今回は、

『杖折檻の段』  芳穂  錦糸。

『東天紅の段』  小住  藤蔵。

『宿彌太郎詮議の段』  呂勢 清治。

『丞相名残の段』 千歳  富助。


鶴澤清治さんは、1976(昭和51)年から、4代目竹本越路太夫を、その引退までの13年間弾いて。

現在、三味線の部の最高格。人間国宝にも認定されて。


人形役割

51年前は、

菅丞相を吉田栄三。

伯母覚寿と桜丸を吉田玉男(先代)。

立田前と女房八重を吉田簑助。

苅屋姫を吉田文雀。

宿彌太郎を桐竹亀松。

判官代輝国を豊松清十郎(先代)。

など。

里の童として、吉田和生や吉田玉女(今の玉男)の名前が。

で、菅秀才が吉田簑太郎(今の勘十郎)。


で、今回。

菅丞相を吉田玉男。

伯母覚寿を吉田和生。

立田前を吉田一輔。

苅屋姫を吉田簑紫郎。

宿彌太郎を吉田玉助。

判官代輝国を豊松清十郎。

など。


時は流れ、人は移り。


しかし、『菅原伝授手習鑑』の、物語としてのおもしろさ。

その骨太の構造、波乱に満ちた展開のなかに、多くの人物が生き生きと。

それは、変わることなく。


ただ、1部が10時45分から13時30分。

2部が14時00分から17時15分。

途中の休憩はあるのですが、通しで見て。

しかも、はりきって、どちらも最前列の中央の席。

くたくたに疲れました。もちろん、心地いい疲れではありますが。


51年前は、9時間を越える『通し』を、興奮のうちに過ごしたのですが。





1等席が1200円。

それが、通しで、二割引となり、さらに、学生の三割引が加わって。


次回の国立劇場での文楽公演。

1等席が8000円。

学生が5600円。

もちろん、学生割引は使えませんが。