12月16日は、良弁忌。
で、それにあわせて、特別公開・特別開扉がなされます。
春日大社から、若草山を横手に見ながら、手向山八幡宮。
そして、東大寺の法華堂。三月堂とも言われています。
ここは、『執金剛神立像』。
列が伸びています。
ただ、係の人の話では、去年の方が、圧倒的に多かった、と。
この法華堂は、好きな空間。
畳となっている段に腰かけて、仏さんたちとの時間を過ごします。
時には、堂内、誰もいなくなり。
独り占め。
中央にいらっしゃるのが、
不空羂索観音立像。
362.0cm。
その威厳。
救いを、お願いしたくなり。
そして、その両脇に、梵天と帝釈天。
表情を押し隠して。
その前に、金剛力士。阿形、吽形。
四天王。
持国天、増長天、広目天、多聞天。
皆さん、国宝。
以前は、他にも、いろいろな方がいて、ごちゃごちゃしていましたが、東大寺ミュージアムに行かれたりして。
ここには、選ばれた、いわば、『エリート』たち。
奈良に来るたびに、この法華堂と、二月堂は、必ず訪れて。
大仏さんには、最近、お会いしていません。
で、今日は、特別な日。
『執金剛神立像』が、主役の日。
コロナ感染防止のために、制限された人数で、なかに。
『執金剛神立像』は、5分との制限がついていて。
その時間になると、タイマーが唸り。
この像は、新聞社主宰の、『特別拝観』により、対面しています。そして、
その印象が強く残っています。
その法華堂に並ぶ人びとの列。
なかに入っても、10人前後の、3グループにわかれて。
そして、
あざやかな色彩。
力に満ちた、力がみなぎった、その身体。
そして、表情の厳しさ。
ホームページから、
良弁僧正は、持統天皇3年(689)、相模国(さがみのくに 現在の神奈川県)の漆部(ぬりべ)氏の子として生まれ、義淵(ぎえん)僧正のもとで学び、法相学を習得されたといわれています(別伝では、近江百済氏の出身で幼時に鷲にさらわれ、義淵僧正に育てられたともいわれています)。宝亀4年(773)旧暦11月16日85歳で示寂されましたが、それから246年後の寛仁3年(1019)になって、初めて御忌法要「良弁忌」が営まれました。「開山堂」はその時に創建され、「良弁僧正座像」も同時に造立されたといわれています。がっちりした体躯に気迫をみなぎらせた肖像彫刻の傑作です。 | |
「開山堂」は、二月堂の下、四月堂北側の囲みの中にある、宝形造(ほうぎょうづくり)の小さなお堂で、国宝に指定されています。「良弁僧正坐像」は、その内陣中央に位置する八角造の厨子の中に安置されています。 良弁僧正は聖武天皇の信任を得て、天皇の「不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)」を安置した一院をうけて、天平5年(733年)念持仏の「執金剛神立像」を安置して一寺を建立しました(そのお寺は、当時「金鐘寺(こんしゅじ、のちきんしょうじ)」と呼ばれ、現在の東大寺・法華堂となっています)。その後新羅(しらぎ)の留学僧・審祥(しんじょう)に「華厳経(けごんきょう)」を学び、金鐘寺で「華厳経」を講じ「法華会(ほっけえ)」を開講しました。天平勝宝4年(752)の大仏開眼時には、多大の貢献をして東大寺の初代別当となり、天平宝字7年(763年)に僧正位に昇ったと伝えられています。 |