6月24日(水)、映画『コリーニ事件』を、見ました。

2019年製作の、ドイツ映画です。123分。




監督は、マルコ・クロイツパイントナー。

脚本は、クリスティアン・ツバート、ローベルト・ゴルト、イェンス=フレドリク・オットー。

この作品には、原作小説があり、フェルディナント・フォン・シーラッハ。『コリーニ事件』は、2011年に出版されています。(創元推理文庫)。
この小説は、まだ、読んではいません。
シーラッハの作品では、『TERROR  テロ』という舞台を見ています。
「テロリストにハイジャックされた旅客機を撃墜し164人の命を奪い、7万人を救った空軍少佐。彼は英雄か、罪人か?決するのは裁判を見守る“観客”、つまりあなた自身だ!」(舞台のチラシから)
観客が、芝居後半で、有罪か無罪かの投票をする、という舞台。橋爪功と神野三鈴の、緊迫したやり取りがあり、法廷劇としてのおもしろさを体験しました。
演出は、森新太郎。

で、この『コリーニ事件』も、舞台の中心は、法廷です。

小説からの映画化に際して、多くの変更点があるようです。

映画は、最高級ホテルの、スイートルーム。そこでの殺人から始まります。
そこにいたのは、巨大企業のオーナーであるハンス・マイヤー(マンフレート・ザパトカ)。
そして、彼を射殺したのが、ファブリツィオ・コリーニ(フランコ・ネロ)。

フランコ・ネロ、台詞で語るのではなく、その存在感で、多くを語ります。




法廷で、コリーニの罪科が論じられるのですが、コリーニは、黙秘を貫いたまま。

そのコリーニの、国選弁護人となるのが、主人公カスパー・ライネン(エリアス・ムバレク)。
3ヶ月前に弁護士になったばかり。

彼に対するのは、リヒャルト・マッティンガー(ハイナー・ラウターバッハ)。カスパーが学生時代に、刑法の講義を受けていた、いわば恩師。しかも、ドイツの法曹界にあっては、「伝説的」とも言える人物なのです。

とても、おもしろい作品でした。
もともと、法廷劇には、対立構造があり、その丁々発止のやり取りは、作品の魅力を高めていきます。
で、今回は、そこに、新米の弁護士と、大物弁護士との対立。しかも、そこには、師弟関係がある。
で、その新米弁護士の、成長物語としての要素が加わります。

また、主人公カスパーの設定です。
彼の存在を、貧しいトルコ系として、設定しています。父親は、ドイツ人なのですが、カスパーが2歳の時に、家を出て。カスパーは、トルコ系の母親によって育てられました。
そのカスパー、子供時代の友人であったフィリップとの関係から、その祖父であるハンス・マイヤーからの援助を受け、その生活、進学も助けられて。
殺された、つまり被害者のハンス・マイヤーは、カスパーにとっては、大変な恩義ある人物だったのです。
それが、加害者のコリーニの弁護を担当することになり。

友人であったフィリップは、交通事故で、その両親とともに亡くなりました。
その事故の場に居合せなかった、ヨハナ(アレクサンドラ・マリア・ララ)は、唯一の後継者として成長し、今回の「コリーニ事件」の、被害家族として、裁判に立ち会います。
そのヨハナ、かつては、カスパーと恋愛関係にあって。

つまり、主人公カスパーにとっては、二重三重の葛藤。それが、全身に、絡みついて。

しかも、そこに、母と自分を捨てた父親も、絡みついて。

しかし、この作品がおもしろいのは、それらを越えて、カスパーがたどり着いた先にあったもの、その正体なのです。

なぜ、コリーニは、ハンス・マイヤーを殺害したのか。
頭に、銃弾を3発撃ち込み。さらには、その頭蓋骨を割るほどに、踏みしだき。
その「憎しみ」は、一体、何なのか?

カスパーにとっては、殺されたハンス・マイヤーは、温厚な、面倒見のよい人物。

それこそ、ヨハナがなじったように、ハンス・マイヤーの恩情がなければ、カスパーは、今頃、大学に進学することも出来ず、せいぜいケバブ屋の店員。

誰からも、恨みを買うような人物には思えないのです。

ところが、この殺人に使用されたのが、ワルサーP38という、珍しい拳銃であること。それと同じ型の銃を、かつて、ハンス・マイヤーの書斎で見つけたこと。そこから、物語は、一気に、大きなうねりを持ってきます。

ウイキペディアで調べると、このワルサーP38は、カール・ワルサー社製の、軍用自動式拳銃で、1938年に、ドイツ国防軍の制式拳銃として採用された。とあります。

なぜ、コリーニは、ハンス・マイヤーを殺害したのか?

舞台は、1944年のイタリア、モンテカティーニに。

そこであった、ナチ親衛隊による、住民虐殺。
パルチザンにより、ドイツ兵ふたりが殺されたことに対しての報復として、20名の男たちが銃殺された。

で、ネタ、バレバレなのですが。

その司令官が、ハンス・マイヤー。
殺害された男の子供が、ファブリツィオ・コリーニ。

そして、そのことから、戦後ドイツの、戦争犯罪と、どのように向かい合ってきたかの問題へと、突き進んで行くのです。

プログラムにある、本田稔記述の『ナチスと戦後』の中に、
「西ドイツの場合、元ナチや親衛隊(SS)に所属していた官僚は一度は公職追放されたものの、ほどなくして復帰を遂げた。司法省の高級官僚の8割が元ナチや親衛隊のOBで占められた。かつてドイツ民族の法であるナチの党綱領に忠誠を誓った法曹たちは、今度は世界平和と人間の尊厳を刻んだ新生ドイツの基本法に忠誠を誓った。」
ところが、60年代に入って、
「ドイツは自らの過去を法廷で裁く作業に本格的に着手した。反ユダヤ主義の民族的憎悪に満ちたホロコーストを謀殺罪の正犯、協力者をその幇助犯として裁き始めた。同時にその流れに抗する動きも強まった。68年の法改正がそれである。映画『コリーニ事件』は、ナチの過去の克服を阻む法とそれを仕掛けた人物の名を挙げて告発した最初の映画である。」

で、その法が、ドレーアー法で、この説明も、とても詳しく、分かりやすくなされているのですが、ここでは、省略します。結論だけに留めて。

で、「結果としてナチ関係者の多くが時効扱いで罪に問われないこととなった」のです。

で、そのために、コリーニが、ハンス・マイヤーを、住民虐殺の罪で告発しても、マイヤーは、時効のために、その罪を問われることはなかったのです。

カスパーは、法廷で、そのことを明らかにします。
そして、そのドレーアー法の制定に、マッティンガーも加わっていたことも。




作品は、2001年の現在。1944年、そして、カスパーが過ごした少年時代である1980年代を、描いて。
で、ラスト、現在である2001年と、コリーニの少年時代とがひとつに溶けあって。

戦争犯罪。
それに関わった者、関わってしまった者。関わらざるを得なかった者。
それが、過去のことであったとしたら、その過去と、どのように向き合うか。
どのようにとらえていくか。

ここに描かれていたこと、それは、決して、他人事ではなく、この国の「あり方」に関わってくる、そのことを考えながら、この作品を見ていました。
見終えても、考えています。

それで、とても、おもしろかったのです。

なお、作者のフェルディナント・フォン・シーラッハ。彼の祖父は、高名なナチの高官。そのために、フェルディナント自身、その「シーラッハ」の名前の圧力に悩んだことも。

舞台の『テロ』の、チラシです。