新国立劇場の、2008年10月公演。
10月15日(水)18時30分開演。

その『トゥーランドット』も、衝撃的でした。

指揮は、アントネッロ・アッレマンディ。

演出は、へニング・ブロックハウス。

オペラでも、演出を中心に見てしまうのです。

で、このへニング・ブロックハウス版。

まず、何よりも驚いたのは、ここには、2つの世界が展開されていてことなのです。
ひとつは、伝説時代の中国の北京。
ひとつは、1920年代、プッチーニの生きていた時代。そして、そこには、作曲家自身も登場するのです。

冒頭部分。
1920年代の、作曲家を中心とした人物が現れます。
やがて、作曲家の書いた『トゥーランドット』の舞台がはじまり。で、それは、リューの死まで。つまり、プッチーニの書いた部分まで。
そのあと、再び、1920年代に戻り、幕がおりる。

では、なぜ、演出家は、このような構造にしたのか。

プログラムに、その理由が記されています。

「(前略)今回の『トゥーランドット』のアイデア作りも、作曲当時のプッチーニの心中を探るところから始めました。音楽学者は一般的に、咽頭ガンにかかったプッチーニが、病状悪化のために本作を完成させられなかったものと解釈しています。しかし、私が調べたところでは、彼がこの『トゥーランドット』の作曲を止めてしまったのは、どうも、まだ健康であった頃、病気が発見されるよりも前のようです。」
として、
「本作におけるプッチーニの作劇法で最も重要視すべきは、第3幕の『リューの死』です。ここから先、プッチーニが音楽を書けなくなってしまった理由には、彼がこの哀れな女奴隷の存在感を原作よりも膨らませ、個人的な感情を彼女の音楽に強く盛り込んでしまった点が影響しているようです。プッチーニは生涯に数多くの女性を愛しましたが、その対象となるのは、基本的には自分よりも若くて弱い、目下の立場の人間でした。リューの人物像もそれに合致するものです。」
で、
「評者たちがこぞって指摘するように、プッチーニはこの役柄に、自分の妻エルヴィーラからあらぬ疑いをかけられ、自殺へと追い込まれてしまった元の小間使いドーリアの面影を想像したに違いありません。(中略)リューの音楽を膨らませたのは、彼の胸に絶えず灯っていたドーリアへの想いではないかということ、そして、それとは対照的に、妻エルヴィーラへの感情がトゥーランドットの造型に影響しただろうと推測されるのです。」

その推論をもとにして、時代背景を、作曲当時の1920年代に移し、音楽の始める前に、プロローグを置き、作曲家をはじめとする当時の人々を舞台に出して、
「彼らがそのままドラマの人物になり代わるよう運んだ上で、第1幕の冒頭からリューの死までをお伽話の劇中劇として扱」った。そして、
「アルファーノの補作部分をエピローグと見做し、プロローグとこのエピローグとで、作曲家と周囲の人間模様を表出されること」にした、ということなのです。

で、さらに、
「プッチーニはやはり、オペラの結末をどうして良いものか、もうまったく見通せない状態になっていたのです。妻エルヴィーラと重なる孤高のトゥーランドット像が、ドラマの最後に、愛すべき女性にどうやって変貌するのか、その移り変わりを彼はどうしても思い浮かべられなかったのです。」と。

「今回のプロダクションでは、アルファーノの手になる音楽をばっさりと切ることはせず、先述の通り、エピローグの音楽として扱っています。そこでは、劇中劇の登場人物が仮面を外してもとの1920年代の人々へと戻り、普通の市民同士として抱擁しあうのです。幕切れの完全なる解決とまではいかないまでも、客席で『なるほど』と言って頂けるような一つの方策を見つけたつもりです。伝統的なコンセプトにとらわれることなくご覧頂けき、最後まで舞台をお楽しみ頂けるようにと願っています。」
と、結ばれています。

非常に、長い長い引用になってしまいました。

しかし、これを読むと、演出家の意図とともに、具体的な舞台の展開をも、想像できるのではないか、と思ったのです。

で、エルヴィーラ・ボントゥーリです。

彼女は、もともとは人妻でした。

『新潮オペラCDブック10』の『蝶々夫人』を参照します
この監修は、永竹由幸さんがおこなっています。

プッチーニ(1858~1924)は、学生時代の友人で、食品卸商をしているジェミニャーニの妻エルヴィーラのもとへ、歌とピアノのレッスンに通っていたのですが、恋愛関係に陥ってしまったのです。エルヴィーラには、夫との間に、二人の子供がいたのですが、家を飛び出して、プッチーニと同棲をはじめました。
プッチーニは、エルヴィーラを娘時代から知っているのですが、その当時は、恋心を抱くこともなく。
二人が、同棲をはじめたのが、1884年。プッチーニが、26歳の時のこと。
正式に結婚するのは、1904年ですが。

で、「ドーリア事件」です。

1902年2月23日、プッチーニは、妻子と一緒に、専属運転手の運転中に、大事故にあってしまうのです。(この「妻」というのは、エルヴィーラのことです)
大腿骨骨折という重傷を負ったプッチーニは、身の回りの世話をする者を、雇います。
それが、16歳の、ドーリア・マンフレディ。
彼女は、献身的に、介護をするのです。
ただ、プッチーニに恋愛感情が生じたか、については、
「まだ子供だったドーリアに対して、恋愛感情が芽生えたわけではなかった。というより、娘のような古女房とでもいうか、いわば親戚の一人のような感情だったのではなかろうか。」と分析しています。
その理由は、
「第一、プッチーニという人は、趣味でもオペラの題材でも、そして女性の好みまでも、徹底した『処女嫌い』、つまり『他人が手をつけたものにしか興味を示さない』性格だったのだ」と。
この「性格」については、第6巻の、『ラ・ボエーム』で、詳細に検証しているのですが、その紹介は、略します。
(この自動車事故、1903年2月とするものもあります)

ドーリアは、プッチーニにだけではなく、エルヴィーラや子供たちにも、よく仕えて、プッチーニの怪我が治っても、そのまま「プッチーニ家を切り盛りする有能な小間使い」として、住み込みで働き続けていたのです。
5年が経ちました。
「高慢でバカなエルヴィーラ奥様は、(省略)あろうことか、証拠もないのに、亭主と小間使いの仲が怪しいと、異常なやきもちを焼き始める。それも、家に長逗留をして、プッチーニをいらいらさせていたエルヴィーラの親戚たちの告げ口が発端だった。」

で、エルヴィーラは、ドーリアを解雇。そればかりか、村人たちにも、ドーリアがふしだらな娘であると言いふらし。
「プッチーニも、あまりのことに妻に愛想を尽かし、自らピストル自殺をはかろうかというほど、悩み、苦しんだ。」

で、ドーリアは、耐えきれなくなって、1909年1月23日、服毒自殺をはかり、5日間苦しんで、この世を去ったのです。
プッチーニ、51歳の時のことです。

ドーリアの家の人たちの怒りはおさまらず、2月1日、訴訟を起こし、で、ドーリアの遺体は検死解剖され、「処女」であったことが証明され、マンフレディ家の勝訴となりました。
それに対して、エルヴィーラは、逆提訴。
しかし、最終的には、プッチーニが多額の示談金を支払って、決着をつけたのです。

これが、「ドーリア・マンフレディ事件」です。

エルヴィーラは、疲れ切ってノイローゼになり、子供を連れてミラノに逃げ出して、プッチーニとは、長い別居となりました。

「プッチーニは、ドーリアを心から愛していたのだろう。だからこそ手をつけず、そのうち、ちゃんとした若者と一緒にさせてやろうと思っていたに違いない。そして、彼女が死んだあとは、彼女に対し、本当にすまないという気持ちと、実によい娘だったという思いが、ずっとずっと残っていた。その思いは、まず《蝶々夫人》に表れた。彼が、この作品を心から愛し、何度も書き直したのは(中略)実は、その裏には、ドーリアに対する思いがあったのだ。彼は、15歳の若さで周囲に翻弄され、自殺に追い込まれた蝶々さんの姿にドーリアを重ね合わせていたのだ。」
として、さらに、
「そして、その思いは《蝶々夫人》完成後も残り、遺作となった《トゥーランドット》の脇役リューに結実した。このリューという哀れな娘の役は、ゴッツィの原作戯曲や、ブゾニーニによる先行オペラの女奴隷アデルマとはまったく性格が違う。完全にプッチーニの創作であり、台本作家に押しつけて書かせた役で、ドーリアそのものなのである。文句も言わず、老いた皇帝ティムールに従い、カラフ王子の幸せのために自ら命を絶つ哀れなリュー。これがドーリアでなくて何であろう。」

さらに、
「以前から、喉の痛みはかなりの状態に達しており、すぐにでも手術を受ける必要に迫られていたが、とにかくリューの自殺の場面を書くまでは、手術を受けようとはしなかった。自らの死を予感しながら、これだけは書いておかねばと思っていたのであろう。」
さらに、さらに、
「こうしてみると、あの超大作《トゥーランドット》は、リューレクイエムだったのだ。そして、リューの自殺の場面でとりあえず筆を置いたのは、果たして手術のためだけだろうか。ドーリアを哀れに思うあまり、さすがのプッチーニも、もう書けなくなってしまった。そう考えるのは、感傷に流され過ぎだろうか。」
と。

長い長い引用となってしまいました。

しかし、その内容、とてもおもしろいと思っているのです。また、腑に、ストンと落ちるものなのです。

永竹由幸さん。
1938年に生まれ。2012年に亡くなって。
オペラ研究者として、多くの著作を残していますが、その語り口のおもしろさ、そして、そこに展開される内容の、切り口の巧みさ。
歌舞伎にも、造詣の深い方で。

話を、新国立劇場での『トゥーランドット』公演に戻します。

プッチーニに関しての情報を得ていて、それを基盤にして見ると、このへニング・ブロックハウス版、おもしろいのです。
ゴシップ的な事柄を、覗き込むような。
鋭い人間観察もあって。

もちろん、演出家の新しい解釈は必要ない、とする考え方もあります。
それはそれでよし、としながらも、その作品と演出家とが、どのように格闘したのか、その熱量を、共有したいのです。