上野の森美術館で、10月11日から、2020年1月13日まで開催中の、『ゴッホ展』、行きました。


今回は、「ハーグ派」、「印象派」との出会いのなかで、ゴッホが、どのように変化していったかを、展開する展示となっています。

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)。
オランダのフロート・ズンデルトで、牧師の家に生まれたゴッホ。
16歳で、伯父の経営する画廊のハーグ支店に勤めはじめ、その真面目な勤務態度が、認められ、20歳の時に、ロンドン支店に栄転。
しかし、下宿の娘に恋をし、結婚を申し込むものの断られて。
その失恋の痛手に、勤務態度が悪くなり、解雇。
24歳、アムステルダム大学の神学部を目指すも、挫折。
25歳、神学部入学をあきらめて、ベルギーで、伝道師になろうとするものの、不採用。
それでも、自費で、ベルギーの炭鉱町に赴き、過酷な環境で働く作業員たちに、伝道活動を行う。が、その、過剰な伝道活動が、教会を刺激して、伝道活動を禁止される。
で、27歳。画家になることを決意する。
ここからが、ゴッホの、画家としての人生。しかし、作品は、売れず。

28歳、従姉妹に好意を寄せるが、失恋。

で、ハーグに移り住んで、親戚の画家アントン・マウフェから、絵画を学ぶ。

32歳、ベルギーの美術学校に通うものの、描き方をめぐって、教師といさかいを起こす。

33歳。パリのテオのもとに行く。そこで、印象派の絵画に触れる。
34歳、ポール・ゴーギャンと知り合う。

1888年、ゴッホ、35歳。いろいろなことのあった年。
2月、パリでの生活に疲れ、南仏・アルルに向かう。
10月、ゴーギャンと共に暮らし始める。
12月、ゴーギャンと口論の末、ゴッホは、自らの耳を切る。

1889年、36歳。
5月、自らサン=レミの精神療養院に、入院する。
で、
1890年、37歳。
7月27日、ピストル自殺を図り、2日後、亡くなる。
という、人生。

もっとも、この自殺説については、異論を唱える人も。

ゴッホ、最大の理解者である、弟のテオドルス・ファン・ゴッホ(テオ)は、1891年1月25日に、亡くなっています。

で、今回の展示。
Part  1「ハーグ派に導かれて」
・独学からの一歩   6点
・ハーグ派の画家たち  18点
・農民画家としての夢  12点

Part  2「印象派に学ぶ」
・パリでの出会い  3点 
・印象派の画家たち 13点
・アルルでの開花  9点
・さらなる探求   8点

そのうち、ゴッホの作品が、38点。

で、ハーグ派、です。
チラシの説明を引用します。
「1870年から1900年頃にかけ、オランダ南西部の都市・ハーグを中心に活動した画家たちの総称。屋外での自然観察をもとに田園風景や農民の生活などを描いた。風車や運河といったオランダならではの風景を、柔らかい光やくすんだ色調で表現したことから『灰色派』ともよばれた。」
とあります。
「灰色」。そうなんです。暗いのです。
確かに、そこには、労働者の素朴な生活が描かれています。
しかし、好みから言うなら、好きではありません。
ゴッホの作品でも、『疲れ果てて』(1881)、『ジャガイモを食べる人々』(1885・これは、リトグラフ)、『農婦の頭部』(1885)などが、展示されていますが。


で、この「ハーグ派に導かれて」のコーナーは、ついつい、集中しないままで。

ところが、Part  2の「印象派」となると、展示室が、明るいのです。
そこには、セザンヌがいたり、モネがいたり、ルノワールも。
ポール・セザンヌ  1点
クロード・モネ   3点
ピエール=オーギュスト・ルノワール   2点
ポール・ゴーギャンも、1点

で、ゴッホ。
『サン=レミの療養院の庭』(1889)  クレラー=ミュラー美術館
『糸杉』(1889)  メトロポリタン美術館
『夕暮れの松の木』(1889)       クレラー=ミュラー美術館
『薔薇』(1890)      ワシントン・ナショナル・ギャラリー

惹き付けられました。その色彩。「世界」が、うねり、波打っている、その不安定さ。

ハーグ派の影響による色彩と、印象派の影響による色彩。

ゴッホの、人生の軌跡を追いながら、その作品の変遷を展開。