10月8日(火)、初台にある、新国立劇場の中劇場で、『渦が森団地の眠れない子たち』を、見ました。

作、演出は、蓬莱竜太。

まずは、チラシから、
「現代を鋭く切り取りながら、そのユーモラスな台詞回しと巧みなストーリー展開で観るものを魅了する、劇作家・演出家の蓬莱竜太。昨年発表した『消えていくなら朝』で第6回ハヤカワ悲劇喜劇賞を受賞し、自身の劇団モダンスイマーズも20周年を迎える本年、新たに挑むのは、子どもの目を通して見た『団地の世界』。楽しいだけではない、この世の条理と不条理、現実と神秘が入り混じる世界の縮図を、エンターテイメントに昇華し描き出す。」
そして、
「主演を務めるのは、藤原竜也と鈴木亮平。実年齢も同級生の二人が10年ぶりに舞台で競演するとあって、火花散る芝居合戦に期待が高まる。そして彼らと共にこの“団地大河ドラマ”を創り上げるのは、蓬莱作品には欠かせない存在の奥貫薫、数々の舞台や映画で骨太な演技を魅せる木場勝己、蓬莱が全幅の信頼を寄せる、これからの演劇界を担う二人と同世代の俳優たち。
平成から令和へ、新時代を背負う彼らが生み出す大渦に、巻き込まれずにはいられない!」
と。

この『渦が森団地の眠れない子たち』を見たいと思ったのは、蓬莱竜太作、演出であったから。その生み出す作品の充実ぶりに、この作品への期待があったからです。
そして、その期待は、裏切られることなく、満足、満足。

蓬莱竜太は、藤原竜也と、鈴木亮平に当てて、役を書きあげています。それだけに、二人の、それぞれの存在の仕方が、役と一体になって、ごくごく自然に、舞台に乗っています。

この物語は、田中圭一郎(鈴木亮平)が、小学生であった頃を回想したもの。

ネタ、バレバレですが、そんなことで、この舞台の骨格は、揺るがないと思います。
ですから、いろいろと、書いてしまいます。

開幕前から、舞台中央に、白い便器が置かれています。照明が、その便器を、周囲の闇から切り取って。それだけに、便器の白さが、輝いて。
そこに、大人の圭一郎がやって来ます。
そして、かつて、その便器の置かれている、小さな空間だけが、自分の居場所であったと、回想を始めるのです。

小学生の圭一郎。
彼は、大震災のために、町に住めなくなり、母親の景子(奥貫薫)と、妹の月子(青山美郷)とともに、その町の高台にある、渦が森団地に越して来たのです。
すでに出来上がっている社会、集団のなかに、ひとり放り入れられた不安。戸惑い。
他者との関係を、自ら積極的に開拓していくことの出来ない圭一郎にとっては、憂鬱な日々。
しかし、彼は、そこで、佐山鉄志(藤原竜也)と出会います。
彼は、圭一郎の母親景子の、双子の姉美佐枝(奥貫薫・二役)の子ども。つまり、従兄弟だったのです。
しかし、美佐枝と景子とは、音信を絶っている関係。そのため、圭一郎は、初めて、鉄志と出会ったのです。
しかも、同じ、渦が森団地で。
この団地、たくさんの棟があり、圭一郎と月子は、まだ、慣れない頃に、自分たちの住む棟が分からなくなり、迷ってしまったことがありました。
そこに、颯爽と、自転車、しかも、電飾が付いて目立つものに乗って、鉄志が現れたのです。

鉄志は、団地内の子どもたちに、自らをキングと名乗り、わがままいっぱい。
エアガンを撃ちまくる戦争ごっこでも、弾の入っているのは、鉄志のエアガンだけ。それで、容赦なく、撃ちまくるのです。他の子どもたちは、痛がり、逃げて。そして、死んだ真似をさせられて。
その我儘で、傍若無人で、威張っているガキを、藤原竜也が、自然に演じています。(実は、屈折したものがあるのですが)。
その鉄志から、「圭クンは親戚だから」と、圭一郎は、特別扱い。
その鉄志の庇護のもとで、圭一郎の、渦が森団地での、子どもたちとの付き合いが始まったのです。
時折、回想をする、大人の圭一郎が登場します。その、大人の圭一郎は、庇護されていた自分を思い返し、しかし、「鉄志が、大嫌いだった」と。
人間としては嫌い。しかし、その鉄志によって、自分の存在が、保証されている。だから、鉄志に、言われるままにして。その言うが通りにして。自らを、隠して。
それは、他の子どもたちも、同じ。
戦争ごっこで、鉄志から、エアガンで撃ちまくられて、痛い、痛いと悲鳴をあげながら、逃げ回り、そして、死んだフリ。
好きでやっているのでも、楽しくてやっているのでもなく。
ただ、やらないと、鉄志の機嫌が悪くなり、さらなる「暴力」を振るわれる。まさに、理不尽。
子どもたちのなかには、中学生の男の子もいて、年齢では上であるのに、鉄志の言いなり。
そこにあるのは、「力」関係。
生きていくためには、自分を偽り、「権力」に迎合したり、忖度したりして。
そういう不甲斐ない自分という存在への、やり場のない憤り。

子どもたちの存在、その生き方、とてもとても、生き生きとして。
自分の過ごして来た時間を、ついつい、振り返り。
そして、大人になっても、そこには、あまり変わらない世界が、関係があったりして。

そうした鉄志と、圭一郎の力関係が逆転。
その切っ掛けは、圭一郎の妹の月子が、血の繋がりのないことを、言いふらしたことから。
大切なものを傷つけられた怒りから、鉄志に向かっていく圭一郎。
すると、案外、圭一郎、強いのです。
で、立場が逆転。
それまで、キング、キングと、鉄志に従ってきた子たちの間に、どちらに付くかの混乱が生じ、しかし、大勢は、圭一郎に。
大人も、形勢を巧みに感じ取って、裏切る。それが、当たり前の世界。

奥貫薫の演じる、双子の姉妹、美佐枝と景子。
姉の美佐枝の、景子に対する憎しみ。母親の愛情が、景子にばかり注がれるのを、横目に見ながら成長して。
親も、子どもを平等には愛せないと。どちらかに、より多くの愛情を。
それだけに、景子への競争心。
鉄志に対して、圭一郎には絶対に負けるなと、手をあげながら。その姿を、団地の人たちに見られながらも、怒りを隠そうとはしない。その、心に巣くった闇。

鉄志が、キングでいられるのは、彼の振るう暴力と、そして、もうひとつ、金を持っていること、その金をばらまくこと。つまり、「金」でも、支配している。

しかし、その金の出所は、父親の保険金詐欺。

やがて、その詐欺が暴かれて、両親は逮捕されてしまう。

鉄志は、両親が、父親が死亡したということにした詐欺で、多額の金額を、手に入れたことを知っています。
姿を隠している父親を、町で見かけた時の、心の痛み。
鉄志と、心に闇を抱えて生きていたのです。

で、鉄志は、養護施設へ。
圭一郎と、鉄志との別れ。
「親戚」の繋がりを確認して、「また、会おう」との約束。
しかし、以来、圭一郎は、鉄志と会うこともなく。

美佐枝と景子の、双子の姉妹の、心の闇。
鉄志の、心の闇。

子どもたちを見守る、団地の町内会長(木場勝己)。
彼は、極めて、道徳的な、子どもとの付き合い方を、繰り返して語ります。
そして、子どもたちに対して、寛容で。
しかし、亡くなった妻の大切にしていた花壇を、鉄志が、踏み荒らした時、彼の怒りが爆発し、鉄志を手をあげてしまいます。
そのため、町内会長を辞して。
この、「大人」の存在。
常日頃、正しい言葉、美しい言葉を吐いて、いかにも人格者然としていながらも、その抱えている、心の闇。

では、圭一郎の、心の闇は。
閉ざされたトイレという空間のなかで、彼の想像力は、さまざまな物語となって、自由な時空間を羽ばたいて。そして、そこで生まれた物語を、彼は、ノートに記していました。
ところが、そのノート、鉄志に持っていかれてしまい。
で、鉄志が、団地から去って行く時、遊び場にしていた森で、圭一郎は、鉄志と会います。そして、ノートを返されます。
鉄志は、ノートに書かれた物語に触れた後で、ノートの後ろのページに描かれていた絵にもふれます。
それは、圭一郎にとっては、触れられたくない、彼の心の闇。
そこには、動物たちの死骸。圭一郎、その命を奪った動物たち。

大震災。
多くの人々が亡くなった、災害。そのために、圭一郎は、住み慣れた町を離れ、転校し、上の町の、渦が森団地に、引っ越し。
その災害の時、大津波で、多くの人々が亡くなり、その遺体が、高校の体育館に安置されました。
それを、圭一郎は、見に行ったのです。
並んでいる遺体。そこで、初めて、圭一郎は、死を直視したのです。
以来、「生」を確認するために、多くの生き物を殺し、その死を重ねて行くなかで、「生」の世界に戻って来た。その、圭一郎の、心の闇。

舞台は、とにかくエネルギッシュ。

鉄志を演じる藤原竜也は、速射砲のように、台詞を撃ちまくり、動き回り。やんちゃな、ガキ大将。エネルギーが、外へ外へと、飛び出して来る。
しかし、その奥底にある、屈折したもの。

そして、圭一郎を演じる鈴木亮平は、そのエネルギーが、内部へと。
動物たちにとっては、突然の死。圭一郎によって、無理矢理に、死の世界へと、追いやられた。
それは、大震災の津波による死も、同じ。その死は、予期せぬもの。
死は、突然にやって来て、その生を奪い取っていく。それは、あまりにも理不尽。そして、チラシのなかの言葉を用いるのなら、「不条理」。

舞台は、笑いに満ちています。
しかし、舞台を楽しみながらも、その底に広がる深遠な「世界」に、思わず、感嘆のため息。

舞台の勢いに、一気に見ていたのですが。休憩15分を含んで、2時間35分。

あらためて、じっくりと、本を読んで見たいと思っています。そして、その台詞、言葉を追いながら、追体験をしたいとも。

太田緑ロランスが、ティーンのモデルをやっている小学生として、華やかに。それに絡む傳田うにも、個性豊かに。
などなど、全体のアンサンブルも、好印象。