8月21日(水)、下北沢の、OFF・OFFシアターで、『アイランド』を見ました。

「イマシバシノアヤウサ」の企画、製作。
この「イマシバシノアヤウサ」というのは、文学座に所属する、演出の鵜山仁、俳優の浅野雅博、石橋徹郎の、三人によるユニット名。
9年前から始まり、この『アイランド』の上演で、4回目。この4回目で、ユニット名が付いたとのことです。
「イマシバシノアヤウサ」のなかに、三人が潜んでいます。

この『アイランド』は、アソル・フガードの作品を原作としています。ジョン・カニ、ウィンストン・ヌッショナの二人の名前も連記されていることから、アソル・フガードが、ジョン・カニとウィンストン・ヌッショナの二人の俳優と協力して作り上げた、ということが分かります。

それを、翻訳し、演出したのが、鵜山仁。
オリジナルと、どのような違いがあるかは、分かりません。

舞台は、南アフリカ。
1991年に廃止されたアパルトヘイトが、まだ、国家の政策として生きていた時代の物語です。
物語の始まる前に、ジョン役の浅野雅博と、ウィンストン役の石橋徹郎が、登場して、作品の簡単な説明をしました。
アパルトヘイトの時代、政治犯は、収容所のあったロベン島に送られたこと。この収容所には、かつて、ネルソン・マンデラ(1918~2013)も、収容されていたこと。

ネルソン・マンデラは、反政府活動のために、1964年に、国家反逆罪で終身刑の判決を言い渡され、27年間の獄中生活の後、1990年に釈放されています。
1993年にノーベル平和賞を受賞。
1994年から1999年まで、大統領に就任していました。

で、物語、です。
ジョンとウィンストンは、すでに3年に近くも、獄中生活をともにしています。

一日の作業は、海岸で、砂を掘り、それを運び、それを捨てる。その繰り返し。何かを作るためでもなく、何かを壊すためでもなく。ただ、砂を掘り、運び、捨てる。
不毛な作業。
しかし、その「不毛」であることに、意味があるのです。
その行為は、囚人の肉体を疲弊するだけではなく、むしろ、その精神を破壊に導いていく。生きる希望を失わせていくのです。

その二人の移動も、両者の手と、足とを縛り。

そうした二人の日常。

所内の慰労会で、『アンチゴーネ』の芝居を上演しようと、意気込むジョン。
演じるのは、ウィンストン。

ギリシャ悲劇。『アンチゴーネ』。
オイディプスの娘、アンチゴーネ。彼女は、自ら盲目となった父の手足となり、放浪。やがて、その父も死に、祖国テーベに帰還。
ところが、兄のポリュネイケスと、エテオクレスが、敵味方に分かれて戦うことに。しかも、相討ちで、どちらも命を落としてしまう。
テーベの王、伯父にあたるクレオンは、エラオクレスの葬儀だけを認め、敵に与したポリュネイケスの葬儀は許さない。
しかし、アンチゴーネは、ポリュネイケスのために、その遺体に、一握りの土をかけて、葬儀を執り行った。それが、王クレオンの怒りを買い、アンチゴーネは、祖先のラブダカスの墓のなかに、幽閉されてしまう。
で、アンチゴーネは、その墓のなかで、首をくくって、自らの命を絶ち、彼女を救おうとやって来た婚約者、クレオン王の息子ハイモンは、アンチゴーネの遺体の前で自害。さらに、その知らせを聞いたハイモンの母、つまりはクレオン王の妻エウリディケも、悲しみのあまりに、自殺。
という、悲劇。

では、なぜ、『アンチゴーネ』の上演なのか?

アンチゴーネは、王であるクレオンの定めた法を、犯しました。しかし、それも、兄を弔いたいという、当然とも言える心情から。
アンチゴーネは、理不尽な法を、自らの意志で、否定したのです。

そこに込められた、ジョンの思い。
演じるウィンストンの思い。

しかも、ジョンは、釈放が決まり、一方のウィンストンは、無期懲役。

二人の間に生じる、あらたな思い。

浅野雅博、石橋徹郎の二人、状況を、その心情を、丁寧に演じていました。
1時間15分に、凝縮していました。

手や足を拘束されたり、不毛な労働に肉体を酷使されたりしながらも、その閉ざされた空間のなかで、精神の自由を羽ばたかせる。
「精神の自由」が蝕まれつつある現在。それが、犯され、奪われていくことに、気がつかない現在。
と、そんなことを考えました。

ただ、個人的な好みとしての、欲を言うならば、登場人物に、もう少し、ドロドロ感がほしいと。
二人とも、善良。ただ、その「善」や「良」の裏側には、「悪心」もあれば、「邪心」もあるのではないかと。
例えば、ジョンの解放。それに対するウィンストンのと関係。そこには、複雑な思い、エゴイズムのようなもの、その腹の奥が見たいと。
と、そんなことも思いました。

もちろん、舞台としての成果を、肯定した上でのことですか。