東京芸術劇場シアターウエストでの、『ガラスの動物園』の公演は、7月7日(日)に幕を閉じました。
追加公演も、盛況のうちに。

それにしても、なぜ、この『ガラスの動物園』は、繰り返し上演され、観客をひきつけるのでしょうか。

母と、娘、息子の、三人家族の物語。その、「切ない」物語。

今回の文学座公演、そのパンフレットに、精神科医の、斎藤環さんが、一文を寄せています。

「ヒロインのローラは、今で言う『ひきこもり』である。(中略)
弟のトムは、(中略)彼は単調な生活に飽き足りず、冒険に憧れる青年なのだ。
母のアマンダは、南部で過ごした娘時代の、華やかな生活を忘れられない。彼女は過去に生きており、自分と同じ価値観を娘や息子に強要する。」
と、それぞれを説明して、
「この物語では、誰もが『現実』を生きていない。ローラはひきこもり、トムは外の世界に憧がれ、アマンダは過去に生きている。逃避する方向性の違いが、さまざまな摩擦を引き起こす。しかし、見方を変えれば、この家族は小さい葛藤を抱えながらも、家族システムとしては一定の均衡を保っているようにも見えるのだ。」
しかし、その「均衡」を乱すのが、ローラの高校時代の憧れの人物、ジム。
「ジムはローラを励まし、ローラはジムにいちばん大切なコレクションであるユニコーンを託す。彼らはダンスを試み、キスをする。しかしそのさい、ユニコーンは床に落ち、角がとれてしまう。」
「分析家は言うだろう。このアクシデントこそ『去勢』の象徴なのだと。幻想の角を去勢されたローラは、ここから外へ、『現実』のほうへ向かうことになるのだ、と。確かに、ここで均衡の一角が崩れ、トムもアマンダも、それぞれの形で『現実』に直面することになるだろう。」
「トムは放浪しながらも、捨ててきた姉のことが忘れられない。原作者ウィリアムズの姉ローズ(精神疾患ゆえにロボトミー手術を受けさせられた)の姿がここに重なる。本作が掻き立てる強烈なノスタルジーの核にあるもの、それは幻想としての家族だ。人は現実を生きねばならない。しかし現実を生きるには『家族という幻想』の支えが必要なのだ。」

トムは、「現実」を生きるために、家を飛び出し、母と姉を捨てました。そのことで、残された二人が、どのような生活を送るのか、どのような人生を過ごすのか。想像力に富んだトムには、たやすく、思い描ける、二人の「未来」。

「母と姉を捨てました」、確かに、物理的には捨てたのでしょうが、心理的には、どうであったか?

くびきとしての母と姉を捨てようとしても、その捨てたいという思いが、強ければ強いほど、そのくびきは、より固いものとなって、その行動を制限していく。

自分自身の人生を、自分自身のために生きるとするならば、自分自身以外のものは捨てなくてはならない。ふと、そんなことを考えました。そして、そんなこと、果たして出来るのか、どうか、とも。

『その後のアマンダ』、『その後のローラ』という物語。