4月26日(木)、信濃町にある、文学座のアトリエで、「最後の炎」、見ました。
デーア・ローアー作。新野守弘訳。演出は、生田みゆき。
この「最後の炎」、作者の、2008年の作品。
日本では、2009年に、リーディングという形で、新国立劇場、森新太郎の演出。
2011年には、エイチエムピー・シアターカンパニーが、笠井友仁の演出。これが、日本初演です。
2012年、テラ・アーツ・ファクトリーが、林英樹の演出。
それらを、見てはいないので、今回の文学座の舞台が、初見、です。
舞台は、中央に、直径4メートルほどの盆が設置され、そこには、一本の枯木。
その盆を囲んで、四方に客席。四方の角が、デハケの通路。
床面の色は、茶系統。
舞台冒頭、8人の人物が登場し、次々に、盆の上に乗っていく。
そして、彼らは、口々に、数年前の8月19日の、とても明るい正午に、八歳のエドガーが、車に跳ねられて死んだことを、語る。
それが、時には、重唱ともなって。
そして、詩的旋律を持って。
しかも、時に、役柄を通して語られるのではなく、ト書き、ナレーションとして。
乱暴にも、まとめてしまうと、ギリシャ悲劇の、コロスのよう。
ここに、戸惑いがあります。
芝居を見ながら、その人物が、どのような人物か、考えます。それは、他の人物との、差別化、です。
それぞれの人物に、切り離し、その間に生じる「関係」を、考えます。
しかし、この作品においては、個であるとともに、全体でもあるのです。
その後も、めまぐるしく登場し、退場し、台詞を語り。
もちろん、ここには、物語があります。
発端は、エドガーの死、です。
しかし、それは、すでにあったこと、過去のこととして、観客は、その事故を見ることは出来ません。
そのエドガーの父親ルードヴィヒ(松井工)。不動産管理会社に勤めています。妻は、スザンネ(鬼頭典子)。元小学校の音楽教師。今は、義母ローズ・マリー(倉野章子)の介護をしています。アルツハイマーが進行しているからです。
事故を目撃したのが、帰還兵ラーベ(大場泰正)。
エドガーを轢いたのは、警官のエトゥナ(高橋紀恵)。不審車両を、パトカーで追跡中に、飛び出して来たエドガーを、轢いてしまったのです。
その車を運転していたのが、元不動産管理会社の守衛で、失業中のペーター(西岡野人)。彼のパートナーで、元フリークライマーのオーラフ(奥田一平)。
また、元小学校の美術教師で、ルードヴィヒと関係を持つカロリーネ(上田桃子)。
そして、犬。(犬は、舞台には登場しませんが)
エドガーの、事故死。
そこから、彼らの人生が、再出発。
文学座の機関誌の「文学座通信」から、作者と、演出家の言葉を、書き写します。
作者デーア・ローアーの言葉。
(前略)
八人の登場人物が舞台に集まります。そのうちの二人は死者となり、一人は失踪します。また、一言もしゃべりませんが、犬も重要な役どころを演じます。人々は、数年前に全員が関わったある出来事を一緒に再構成しようとするのです。
彼らの人生を根本から変えてしまった出来事、それは八歳の少年エドガーの死でした。人々はたくさん話し、話し合い、過去を取り戻そうとします。喧嘩し、推測し、謎を解き、誤解を正します。言葉と意味のつながりを求める彼らの試みは、おずおずと手探りになることもあれば、絶望的で情熱的となることもたびたびです。このように共同で語る試みの中で、一人ひとりの声は境界を越え、集合的な意識の流れへの入り口が見出されるのです。
(後略)
演出の生田みゆきの言葉。
(前略)
私はこれは忘却に抗う劇だと思う。どんどん曖昧になる記憶、白く消えていく絵をもう一度そこに、死者をも巻き込んで出現させる試みだと思う。そしてその過程で、それそれの痛みを分かち合うことを恐れつつもつながりたいと憧れる登場人物たちは、時に私たちにひどく重なる。個人が尊重される裏側で孤立を深める私たちの心の奥底の願望を見せられている気がしてならない。
「文学座通信」には、キャストの紹介が、それぞれの役、その関係の図式で示されています。
それを、あらかじめ読み、いわば、外堀を埋めた状態で、アトリエでの芝居を見たわけですが、全く、何の情報もなく、丸腰で客席に腰をおろした人にとっては、芝居を読み解く、その糸口が、なかなか、掴めなかったのではないかと。
もちろん、見巧者の方は、そんなことはないのでしょうが。
言葉を腑分けしながら、それぞれの役、その関係を、頭の中に、必死で描こうとし、格闘しました。
そのため、全体の把握には、自信がありません。
例えば、盆がまわるのですが、右にまわる時と、左にまわる時とがあり、また、止まっている時もありで、その法則性が見えて来なかったのです。


