4月25日(水)14時から、初台の新国立劇場小劇場で、「1984」を、見ました。

ジョージ・オーウェルの作品を原作として、ロバート・アイク、ダンカン・マクミランの脚本。それを、平川大作の訳で、小川絵梨子による演出です。

芝居の構造として、オーウェルの「1984」を、そのまま扱うのではなく、2050年以降のこと、人々が、小説「1984」と、その附録「ニュースピークの諸原理」を、分析しています。子供連れでの参加もあり、堅苦しいものではなさそうです。
そのなかに、ウィンストン・スミス(井上孝雄)もいます。ジュリア(ともさかりえ)も。

小説「1984」は、1950年代に生じた核戦争により、世界は、オセアニス、ユーラシア、イースタシアの3つの国に分割され、それぞれが、戦争をしている、という状況を描いています。
主人公のウィンストンの住むオセアニスは、「ビッグブラザー」を頂点とする党により、思想や言論、行動など、あらゆる生活が、監視され、統制されています。
ウィンストンは、真実省記録局で、新聞などの改竄作業に従事しています。その彼が、ノートに、自分の考えを書いて記録することを始めます。
党に対して、「ビッグブラザー」に対して、現在の世界のあり方に対して疑問を抱き始めたのです。
同じように、疑問を持つジュリア。
二人は、愛し合うようになります。
しかし、ウィンストンの疑問が、未来の子供たちのことも考えて、という、公的なものであるのに、ジュリアのそれは、自らの欲望の制限に対する、私的なもの。そのため、ジュリアは、これまでにも多くの男たちと関係を持ったと。
二人は、監視カメラのない部屋で、密会を重ねますが、その部屋も、実は監視されていたのです。
二人は、逮捕されます。
激しい拷問。
その苦しみの果てに、ウィンストンは、ジュリアを売ります。

この作品には、二つの時代が描かれています。2050年以降という現代と、1984年という、小説のなかの過去。
二つの世界が、交錯しながら、物語が展開します。あるいは、一体となって?
拷問の場面にも、子供が子供として、登場しています。
2050年以降という、現実としての現代と、1984年という、虚構としての過去。
それが、意図的に、未分化に展開されているのです。
ウィンストンもジュリアも、どちらの時間軸にも、存在していて、そのことが、観客を悩ませます。
ということは、逆に、1984年という現代から、2050年という未来を想像している、と、とらえることも可能?
その時間領域が、錯綜し、不安定であることが、作品を受け取る、観客の立ち位置までも混乱させるのです。
それが、意図的に?

2018年という、我々の生きている現代も、「1984」に描かれた、虚構としての過去と、同一、というように考えてしまいました。
ふと、まわりを見回すと、監視カメラだらけ。情報社会の中で、思想、心情、行動形態なども、見透かされて。
気がつくと、丸裸。心のなかまで、まる見え状態。恥ずかしさ、恐ろしさ。
そして、その思想、心情、行動形態までもが、操作されて。

ただ、演劇として考えると、登場人物一人一人が、その存在を明らかにしていないのです。どのような人物なのか、他者との差異。それが、見えてこない。描き分けられていないのではないかと。
それは、台本の問題?

ただ、この作品は、ジョージ・オーウェルの書いた「1984」を、そのまま舞台化したものではなく、二人の脚本家が、それを素材として、新たに作り上げたもの、と思いました。
いわゆる「入れ子構造」が、まだ、スッキリとはしていません。

そのため、初台から渋谷まで、歩きました。

それにしても、ラスト、分析するグループの中で、ニンマリと笑う、ウィンストン。
その笑いは、何なのか?

大杉漣さんが、当初、キャスティングされていました。
チラシには、彼の写真が。