9月11日(月)岩波ホールで、「静かなる情熱エミリ・ディキンスン」を見ました。
エミリ・ディキンスンは、1830年に誕生し、1886年55歳で亡くなった、アメリカの女流詩人です。
彼女の存在を、この作品を見るまでは知りませんでした。
この作品により、エミリ・ディキンスンを知り、彼女の人生を学び、まさに、「映画は学校」ですね。
もちろん、ここに展開されていることの全てが、事実ではないでしょう。創作が含まれ、よりエミリ・ディキンスンの人生らしくするための虚構が入り込んでいます。

映画は、マウント・ホリヨーク女子専門学校(現マウント・ホリヨーク大学)を退学するエピソードから、語り始められます。
学校の、厳格な宗教教育に反発したためです。
時代は、19世紀の半ば。
それぞれの時代には、それぞれの時代の制約があり、そのことは、常に踏まえておかなくてはなりません。もちろん、そこに、現代からの視点を持つことも、必要ですが。
そして、55歳で亡くなるまで。

で、結論ですが、見終えた後、消化不良のような、もたれた感じが残りました。
それは、エミリ・ディキンスンが、どのようなものと、どのように戦い、その中で、詩を生み出していったか、が、よく見えて来なかったからです。
冒頭にも描かれた、宗教的な問題。彼女にとっての「神」とは、何なのか?
厳格なる宗教的な束縛。彼女が否定したのは、その束縛であって、神そのものを否定しているのではない。
父親から、教会に行こうと誘われて、それを拒む。家父長制度下、絶対的権威の父親の言葉に、逆らうことが出来なかった時代。
その一方で、教会で聴いたワーズワース牧師の説教に感動し、彼を自宅に招き、詩を贈呈している。まるで、恋する少女のように。

確かに、エミリ・ディキンスンは、魂の自由を求めた、と、まとめることは簡単である。自分が自分であることを求めた、とも。
しかし、その、魂の自由を阻害しているものに対しての葛藤が、よく見えて来ない。

父親から許可を得て、夜中、詩を作る。その時間だけが、「魂の自由」の時間?
深夜、人々が寝静まった後、ひとり、詩作に耽る。
彼女にとり、「詩」とは、どのようなものであったのか?

エミリ・ディキンスンの人生を、エピソードを点在させながらたどり、ひとつのまとまりを示している。
しかし、その人生をなぞっただけで、その「魂」の部分の描き方には、もどかしさがある。

エミリ・ディキンスンの祖父が設立に関わったアマスト・カレッジ。
新島襄や内村鑑三が、留学していた。
「少年よ大志を抱け」のウィリアム・クラーク博士も、そこの教授であった。

なるほど、なるほど。

岩波ホールでの上映は、15日まで。