7月17日(月)13時開演の「怒りをこめてふり返れ」を、新国立劇場小劇場で、見ました。
ジョン・オズボーンの作で、演出は、千葉哲也。
1956年5月8日、ロンドンのロイヤル・コート劇場での初演。それが、イギリスの、というよりは、世界の演劇史に、巨大な金字塔を打ち立てた、とされている。「怒れる若者たち」なる言葉が言われ、荒々しい言葉と動作、何よりも、その爆発する内面が、舞台上に、さらけ出されていった。それが、世界各地での潮流になったのは、第二次世界大戦後の、価値観の混乱、旧態たる現実との衝突があったからではないか、と思う。
で、途中15分の休憩を挟んで、3時間を越える作品。長いと感じた。それは、3時間を越えるという量の問題ではない。質の問題。3時間であろうと4時間であろうと、質がともなっていれば、作品世界にのめり込んで、時間の量を忘れる。
この作品、終始、時間の量を、忘れさせてはくれなかった。
その第一の理由。芝居の色調が変わらなかった、ということ。
主人公のジミー(中村倫也)は、怒り、わめき、荒れ狂う。それは、妻のアリソン(中村ゆり)に対して、同居する友人のクリフ(浅利陽介)に対して、そして、社会に対して。
上中下流の階級社会の中にあって、下流のジミーは、何とか三流大学を出たものの、キャンディを売って生活を送る日々。おそらく、知的能力は、あっただろうし、何種類かの新聞を読み、社会への関心もある。しかし、希望は、ない。
そのため、自分よりも、上の階級に属するアリソンを見て、彼は彼女の中に、「自由」を感じ、結婚した。しかし、それは、虚構に過ぎなかった。
そうしたジミーの怒りなり、怨みなり、嘆きなりが、波状攻撃となって、襲ってくる。しかし、その波の繰り返しに、観客は、すぐに馴れてしまう。
第二に、そうしたジミーの爆発が、大人になりきれない若者の、だだをこねている、わがままを言っている姿として感じられてしまうこと。設定は、25歳くらい、ということだが、どうも、17、8歳くらいに見えてしまう。だから、共感、共鳴出来ない。
それは、こちらが、歳をとった証拠?みずみずしい感性を失った証拠?確かに、自覚症状は、ありますが。
それとも、台本?演出?役者?によるもの?
「自分の内からわき起こるエネルギーを、もて余す」こと、それが、どのように、観客との関係を作って行くか。
初演の時、詰めかけた若者は、「大いに笑い」、生き生きと、舞台に反応した、という。ジミーと観客とが、一つに結ばれたのではないか。
しかし、新国立の舞台には、客席とつながる道が、なかったように思われる。
若い女性の目立った観客は、舞台を舞台としてとらえ、登場人物を俳優としてとらえていたのではないか。
作品に、気になること。
ジミーの怒りの爆発が、周囲の人物を巻き込むだけで、社会性を持っていないこと。一人で喚いていても、何にも変わらない。
題名の「怒りをこめてふり返れ」は、「lookBack」は、何を、あるいは、どこを、「ふり返る」のか。
あれこれと考え、考えしながら、初台から、新宿三丁目まで、歩いてしまいました。
ということは、案外、心に残った作品、公演だったのかもしれませんね。
「怒りをこめてふり返」っていたわけでは、ありません。

