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GRPとは、出稿量と視聴率を基にしたテレビCMの定量指標。


延べ視聴率ともいう。放送局が定めた時間枠に放映する「スポットCM」の取引などに用いられる。


数字が大きいほど、多くの視聴者に多くの回数、CMメッセージが届くことを意味する。


広告主や広告会社にとっては「出稿計画」「広告計画」に直結した指標である一方、媒体社であるテレビ放送局

からみると広告枠の「在庫管理」指標としての意味合いがある。


広告主がテレビに10本のスポットCMを出稿した場合、そのCMがそれぞれ放送された時点の毎分視聴率を

10本分、単純に足し上げた合算値が、そのテレビCMのGRPである。


例えば世帯視聴率15%の枠に5本、10%の枠に10本、5%の枠に10本出稿した場合、GRPの値は225になる。


 (15%×5)+(10%×10)+(5%×10)=225GRP


このように実測された視聴率に基づいて算出されたGRPは、特に“アクチュアル(actual)のGRP”と呼ばれ、

広告主や広告会社がCM放送後の評価の際に用いている。


一方、実際にテレビCMを放映する前の出稿計画の検討段階では、世帯到達率(リーチ)と

平均接触回数(フリクエンシー)を掛け合わせた値としてGRPを表現することが多い。


到達率とは、複数回の放映回数のうち1回でも見た世帯の比率である。


広告を覚えてもらったり行動を起こしてもらうためには、同じ人に3回程度は見てもらう必要があるという

古典的なセオリーがあり、GRP値が同じであっても、放映するCMのインパクトなどに応じて到達率と

平均接触回数を調整・設計することになる。


出稿計画でGRPが使われる典型的な場面としては、競合製品と広告出稿量を比較する場合や、

店頭での棚割りの優先度を上げるための流通対策などがある。


店舗などは投入GRPの大小を、広告主の“注力度”のものさしとして見ている。


例えばキリンビールは、2007年3月に発売したプレミアムビール「THE GOLD」で、

発売前の予告(ティザー)広告として2000GRP、発売後に3000~4000GRPを投入する計画を公表していた。


GRP単価は一般に、在京キー局で10万円程度。


例えば、関東地区で225GRPを獲得するには2250万円程度のコストがかかる。

概要


毎分視聴率1%の番組に、テレビCMを1本流すことを1GRPと表す。


例えば、16%の番組に5本、12%の番組に6本、6%の番組に8本のCMを流した場合は、

(16×5)+(12×6)+(6×8)=200GRPとなる。


スポンサーにとっては、どれだけ多くの視聴者がCMを目にしたか(到達率)と、どれだけ多くの回数CMを目に

したか(平均接触回数)が重要になってくる。


このため、GRP=到達率 (Reach) ×平均接触回数 (Frequency) とも表される。


上記の例の合計19本のうち、全ての世帯が一度でもそのCMを見た場合は到達率100%、平均接触回数は2.0回

となる。


また、全世帯のうちそのCMを見た世帯が半分に留まった場合は、到達率50%、平均接触回数は4.0回となる。


低視聴率番組に高頻度で出稿するのと、高視聴率番組に絞り込むのとではどちらが効果的かは一概には

言えず、スポンサーの戦略によるところが大きい。


また当然、ターゲットとしている視聴者層の視聴が見込めることも重要な要素である。


スポンサーであるメーカーが小売店に商品を売り込む際には、好条件の陳列スペースを確保するために

高いGRP値の設定が要求される。


テレビ局側の視点から見た場合、200GRPの放映を受注した場合、視聴率20%の番組であれば10本分の枠を

用意すればよいが、視聴率5%の番組だと40本放映する必要がある。


日本民間放送連盟の定めた放送基準により、1週間あたりのコマーシャルの総量は総放送時間の18%以内と

する取り決めがある。


即ち販売できる広告枠の絶対量に限度があるため、テレビ局の収入の増加を図るためには、

視聴率アップによる単価の向上が必須となる。






広告費用

1GRPあたりの単価は、在京キー局でおよそ10万円と言われている。


例えば、関東地区で200GRPを獲得するには2千万円の費用がかかる。

太陽系の3番目の惑星で、人類をはじめ各種生物が住む天体。


太陽からの平均距離は約1.5億キロで、自転周期は23時56分4秒、公転周期は365.2564日。


形はほぼ回転楕円体で、赤道半径6378キロ、極半径6357キロ。


地殻・マントル・核からなり、平均密度は1立方センチ当たり5.52グラム。


年齢は約46億年。


表面は窒素と酸素とを主成分とする大気に囲まれ、水がある。


衛星を1個もち、月と呼ぶ。


2006年度の総人口65億2517万である。

生誕:1902年2月17日
死没:1985年11月28日(満83歳没)


1945年(昭和20年)、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)

の参与に就任する。 次郎はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ某要人を

して「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。

昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてく

れ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けと

は何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれる。

1948年(昭和23年)12月1日、商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。

汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立した。

その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われる。


同年、連合国軍が戦時に攻撃を避け占領後のため残したといわれた日本最大・最新鋭の日本製鐵広

畑製鉄所(現在の新日本製鐵広畑製鐵所)が、日本側に返還されることになった。

次郎は外貨獲得のためにイギリス企業に売却を主唱するも、永野重雄の反対によって頓挫した。

永野は「(広畑製鐵所を)取れなかったら腹を切る。 将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に

任せられるか」と啖呵を切ったとされる。 その後、次郎と永野は銀座のクラブで取っ組み合いの大ゲンカ

となり、永野が次郎の顔を机に押さえつけた逸話も残る。

戦後復興に欠かせない日本最大・最新鋭の製鉄所の外国資本への売却は、賛否が分かれるところ

である。


白洲は「俺はボランティアではない」が口癖で、英国留学時代の人脈をフルに活用し、主として英国企

業の日本進出を手助けし、成功報酬として成約金額の5%をロンドンの口座に振り込ませていた。
広畑製鉄所の売却商談も成功していれば莫大な富を白洲次郎にもたらしたはずである。

白洲は生涯浮世離れした豪奢な生活を送れたが、その根底にはこうした手数料収入があったことが

挙げられている。


外務省の説明によると、吉田首相は当初、英語で演説を行うつもりだったが、日本の「ディグニティ

(尊厳)」のために日本語でするほうが良いだろうとの米国側からの提案に従い、当日になって、急遽

日本語で演説することとした。

この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で

書かれていたことに激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。

その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、

受諾演説原稿は急遽日本語に変更され、随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせ

た長さ30mにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島、沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り

込まれた。

1952年(昭和27年)11月19日から1954年(昭和29年)12月9日まで外務省顧問を務めた。

吉田退陣後は政界入りを望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻る。

80歳まで1968年型ポルシェ911Sを乗り回しゴルフに興じ、また、トヨタの新型車(ソアラ)のアドバイスな

ども行っていた。 しかし1985年(昭和60年)11月に、正子夫人と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し胃潰

瘍と内臓疾患で入院。同年11月28日死去。 83歳没。墓所は兵庫県三田市の心月院である。


夫人の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。

実はこの遺言書のフレーズは、次郎の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。

そして次郎の墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれてい

ない。



エピソード


日本人で初めてジーンズを穿いた人と伝えられている(サンフランシスコ講和条約締結に向かう機内で

着用した)。 また、ラッパズボンも愛用していた。


株主総会では舞台上に役員席を設ける事を好まず、株主と同じ高さに役員席を設けさせた。

また東北電力東京支社では喫煙室以外は一切禁煙とし、女子社員のお茶汲みを禁じて飲みたい者は

自分で用意させる様に徹底させた。


一方で運転手にシューズの紐を結ばせている会員を見かけた時には「おい、手前ぇには手がないの

か!」と一喝し、その場で追い返してしまった事もあった。


当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった首相の田中角栄に対してさえもルールを守るということを第一に

した。 次郎が理事を務めるゴルフクラブに、ある日秘書らしき若者から「これから田中がプレイしますの

でよろしく」 と挨拶があった。 応対した次郎が「田中という名前は犬の糞ほどたくさんあるが、どこの

田中だ」と返したところ、「総理の田中です」と返答があった。

「それは、(ゴルフクラブの)会員なのか?」と次郎が尋ねると相手からは「会員ではありませんが、総理

です」と返答があった。 次郎は「ここはね、会員のためのゴルフ場だ。 そうでないなら帰りなさい」と

言い、そっぽを向いたとのことである。


クラブのトイレに「洗面所のタオルを無断で持ち出さないでください」という理事長の張り紙があったに

もかかわらず無視した田中に「おい、お前は日本語が読めねえのか」と言った。


田中に対してはクラブの会員でない秘書が総理秘書だからといってプレイしようとしたことを拒否した

一方で、田中が手ぬぐいを腰に差すのは合理的で良いと是認するなど「プリンシプル」に合致した

公正な判断をしている。 次郎は田中に対してはその人物を認めつつ、「あの人は若いころあまりにも金

に苦労しすぎた」と金銭的に貧しかった境遇に同情していた。


田中を批判するばかりではなく、ロッキード事件で逮捕されると、各新聞は「容疑者の田中は…」と

書きたてた。 次郎は新聞社の社長に向かって「田中角栄さんを叩くのはいいですが、あなたの新聞は

4年前彼を今様太閤として「戦後日本が生んだ英雄」とおだてていました。 今、容疑者田中と書くなら

なぜその前に「本紙はかつて彼を英雄扱い致しました、これは読者を誤らしめる不正確な報道でした」と

お詫びと訂正を載せてからにしないのですか」と主張した。


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発現集


「われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない」


「吾々(われわれ)の時代にこの馬鹿な戦争をして、元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではな

いか。 日本の経済は根本的の立て直しを要求しているのだと思う」

(『頬冠りをやめろ―占領ボケから立直れ』より)


「ツイードなんて、買って直ぐ着るものじゃないよ。3年くらい軒下に干したり雨ざらしにして、くたびれた頃

着るんだよ」三宅にアドバイスとして。


「わからん!」(正子の『西行』を読んで)


「今の政治家は交通巡査だ。目の前に来た車をさばいているだけだ。 それだけで警視総監にはなり

がる。 政治家も財界のお偉方も志がない。立場で手に入れただけの権力を自分の能力だと勘違い

している奴が多い」

(「週刊朝日」1976年(昭和51年)11月18日号)


「今の日本の若い人に一番足りないのは勇気だ。「そういう事を言ったら損する」って事ばかり

考えている」

1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。

犬の嗅覚を利用して、がん患者の呼気などをかぎ分ける「がん探知犬」を使った九州大の研究者らの実験で、

9割以上の精度で判別に成功したことが、29日までに分かった。


近く英国の医学誌「GUT」で発表される。


実験は、セントシュガーがん探知犬育成センター(千葉県南房総市)と、

九州大大学院消化器総合外科(福岡市)の園田英人助教らが約300人分の検体を集めて実施。


2008年11月から09年6月にかけ、ラブラドルレトリバーのマリーン(9歳、雌)にかぎ分けさせた。


五つの容器のうち一つだけに大腸がん患者の呼気を詰めて並べ、マリーンがどれを選ぶかを試したところ、

計36回のうち33回は正解を選んだ。


呼気の代わりに便から採取した液状の検体を使った実験では、38回中37回正解した。


同センターの佐藤悠二所長によると、マリーンは嗅覚が特に優れていたため「体内の臭いで、

病気をかぎ分けられるのではないか」と考え、呼気で食べた物を当てるなどの訓練を積んだという。


乳がんや胃がん、前立腺がんで数例試した場合も、かぎ分けに成功したといい、園田助教は「がん特有の

臭いに反応したと推測できる。臭いの原因物質を特定できれば、がんの早期発見にもつながる」と話している。

読み :ピアツーピア

別名 :P to P

分野 :P2P / インターネット


ネットワーク上で対等な関係にある端末間を相互に直接接続し、データを送受信する通信方式。


また、そのような方式を用いて通信するソフトウェアやシステムの総称。


データの送り手と受け手が分かれているクライアントサーバ方式などと対比される用語で、利用者間を直接

つないで音声やファイルを交換するシステムなどが実用化されている。


P2P方式のシステムには、扱うデータの種類や利用者の参加の仕方により様々な種類がある。


特定の利用者間をつないで1対1で音声通話やメッセージの送受信を行うインスタントメッセンジャーや

インターネット電話、利用者がバケツリレー式に別の利用者にデータのコピーを送信するインターネット放送

システム、不特定多数の利用者を匿名でつないでお互いにファイルを交換し合うファイル共有ソフトなどが

有名な応用例である。


単にP2Pと言った場合は最後のファイル共有ソフトのことを指す場合が多い。

本名・こいけ しげあき

1947年12月24日 - 1992年5月1日


愛知県名古屋市出身のアマチュアの将棋指し。 血液型AB型。アマ最強と呼ばれ、賭け将棋で生計を

立てる真剣師としても伝説的な強さだった。

「新宿の殺し屋」「プロ殺し」「最後の真剣師」など数多くの異名で知られる。



出生

1947年、愛知県名古屋市で生まれる。 後年出版された書籍によれば、父親は健常体でありながら

傷痍軍人を装い物乞いをしては博打に明け暮れる不定職者で、母親は自宅などで客の相手をする娼婦

だったという。 そして小池はある時、父親から「男なら博打の一つも憶えておけ」と言われ教わった事を

きっかけに将棋に熱中する少年期を過ごした。 やがて小池はめきめきと将棋の腕を上げ、その強さは

10代半ばにして地元では敵なしという程であったと伝わる。



真剣師の道へ

間もなくして小池は「将棋で生計を立てたい」という一心から高校を中退し上京。 上野にある将棋センタ

ーの住み込み従業員として働きながら、プロ棋士になるために将棋の腕を磨く日々を送った。

しかし自ら招いたトラブルにより頓挫(詳しくは後述)、プロ入りを断念した小池は名古屋に戻り、葬祭業

を営む会社にアルバイトとして勤務した。この頃、小池は地元で知り合った女性と結婚している。

これを機に再び生活の場を東京へと移した小池は、運送会社にトラック運転手として勤務し勤勉に働い

た。 だが数年後、夫人との間にもうけた子供が出産から数日で死去するという不幸に見舞われる。

実子の死という精神的ショックから抜け出せなくなった小池は数年間勤務していた会社を辞め、

賭け将棋が行われている将棋道場へ連日出入りするようになっていく。


新宿の将棋道場に籍を置いた小池は賭け将棋で連戦連勝、間もなくして「新宿の殺し屋」の異名を持つ

凄腕の真剣師として恐れられるようになる。そして同時期に日本最強の真剣師と評されていた大阪の

加賀敬治と日本一の真剣師を決するべく、1979年に当時大阪府新世界にあった通天閣将棋道場で対

局。 ここでも小池は加賀に一歩も譲らぬ戦いを演じ、7勝7敗と互角に渡り合った。


こうして強豪真剣師の座を不動のものとした小池であったが、夫人とは別居の末に離婚、憂さ晴らしに

連日泥酔するまで酒を飲み歩くなど次第に荒んだ生活を送るようになる。

その有様を見かねた知人からある日「賭け将棋ではないが優勝すれば賞金が出る」と勧められた小池

は、アマチュア将棋の大会に出場。見事優勝した。



アマチュアの頂点と挫折

真剣師から一転、アマチュア将棋の世界に身を投じた小池は1980年から2年連続でアマ名人のタイトル

を獲得し、名実ともにアマチュア将棋指しのトップに立つ。プロ棋士を相手にも次々と勝ち星を重ね、

さらに雑誌の企画での大山康晴名人との対局にも勝利した(角落ち戦での対局)。 この事がきっかけと

なり、花村元司(1944年に編入)以来となるアマチュアからプロへの編入の話が持ち上がるなど将棋界

に旋風を巻き起こした。 しかし脚光を浴びたがために過去の寸借詐欺騒動や浪費癖、女性関係のトラ

ブルなど素行の悪さが表面化してしまい、プロ編入の話は日本将棋連盟により却下されてしまった(こ

の協議の直前にも飲酒によるトラブルで警察に連行される不祥事を起こしていた)。

プロ入りを熱望していた小池は大きなショックを受け、しばらくの間将棋界から身を退き、肉体労働など

で生計を立てていたという。



将棋との決別

その後アマチュア将棋界においても10年近く小池の名が出る事はなかった。 当時の青年向け雑誌が

劇画的な「無頼派」棋士として小池を取り上げるなどしているが、一般的な知名度は低かったと言わざる

を得ない。 さらに凄腕の真剣師としてあまりに有名になりすぎたが故に、賭け将棋で小池の相手をする

者がいなくなってしまった事が将棋との離別に拍車をかけた。また小池が来るとヤクザや借金取りが押

しかけてくるため、彼の出入りを禁止していた会場も少なからずあったという証言がある。



復活

晩年、作家であり将棋ファンとしても有名な団鬼六を頼り再びアマチュア将棋の世界に復帰。 当時、団

は官能小説作家を引退して将棋雑誌「将棋ジャーナル」を発行していた。団は小池の素行の悪さを充分

知り及んでいたものの、彼の必死の懇願と天才的ともいえる将棋の腕を見込んで活動の後援を約束し

た。 その後は団の企画でアマチュアのタイトルホルダーを相手に将棋を指しては、その都度勝利を収め

「新宿の殺し屋、未だ健在」と再び話題を呼ぶ。


この時小池の圧倒的な強さを団は「こと将棋に関しては小池は化け物だ」と評している。

ただしこの復帰劇には裏話があり、実際のところ団は小池を目の前で惨敗させ、二度と将棋界に立ち

入れないようにするつもりだったと著書の中で述懐している。 しかし小池は同年のアマチュア名人のタ

イトルを獲得した田尻隆司を相手に圧勝、それまで数年間(団の著書によれば約2年)将棋を指していな

かったとは思えない強さに団は驚嘆したという。


その後しばらく小池は団の専属運転手として働いていたが、小池の知人で団とも面識のある将棋愛好

家が、自分の経営する焼肉店の店長にならないかと小池に持ちかけた。 小池は申し出を快諾、人当た

りの良さと器用さから評判も上々であったが、わずか半年後に不倫相手の女性を連れ失踪(団の著作

によればこの女性は子連れであったとされる)。 またしても音信不通、行方不明となってしまう。

この後小池は将棋をやめ、トラック運転手として運送会社に勤務するなどして生計を立てていたと伝えら

れている。



晩年

しかし40代に入り、突然吐血するなど体調悪化を訴えるようになる。 入院、検査の結果重度の肝硬変と

診断された。 この時期に団の元へ小池本人から連絡が入り、狼狽した様子で「先生、医者が僕はもう

すぐ死ぬって言うんです。 何で僕が死ぬんですか。 わからない」「死にたくないんです。怖いんです。

けてください」と嗚咽しながら助けを求めたという。 それを聞いた団が入院先の病院に駆けつけた時、

小池は80kg以上あった体重は半分まで落ちる程に痩せ衰え、「殺し屋」と呼ばれ恐れられた勝負師の

面影は消え失せていた。 それでもなお将棋への想いを口にする小池に団は「相手は用意する。やって

みるか」と尋ねると、小池は「是非お願いします」と答えた。 小池は病院を抜け出し、団の自宅で当時

アマチュア将棋界のホープと評された天野高志との対局に臨む。 天野は当時、竜王戦予選にアマチュ

ア枠で出場し、プロに対して3連勝中であった。 そして団の立会いの元、小池は二連勝を収め完勝。

この時小池は団にか細い声で礼を言い、病からくる苦痛に耐えながらも笑顔を見せたという。

この様子を団は「小池はこれが自らの最後の対局になる事を悟っていたようだった。

死して悔い無し、というかのような笑顔だった」と著作の中で語っている。


そして天野高志との対局の数日後、病院に戻った小池は再び吐血し容態が急変。 最期は病室のベッド

で体に繋がれたチューブを自ら引きちぎって死亡したといわれている。 享年44。



スタイル

小池は一流の棋士としては極めて特異な盤術で知られ、巧妙な防御策と速攻を駆使する戦法で相手を

翻弄した。 将棋の対局には持ち時間が定められており、互いの持ち時間が無くなった後の秒読みに持

ち込む事で小池の体勢は完了する。 早指し戦における小池は並外れた集中力を発揮し、相手に考える

時間を与えない程に指し手のペースを上げた。 その後、ルールで定められた時間というプレッシャーで

相手のミスを誘い、それを見逃さず攻勢に転じ一気に勝負を決める。 その指し手の鮮やかさが小池の

「殺し屋」という異名の由来といわれている。



エピソード


普段の生活の中で将棋の研究などは一切行わず、そもそも自宅に将棋盤を置いていなかった。

事前に対戦相手の対策を練る事をしない事でも知られた。 ある大会に小池が出場した際、明らかに酒に

酔った状態で会場入りして控え室で寝てしまい、対局直前になっても目覚めないため係員が揺り起こし

たという逸話が残されている。 なお、この対局は寝起きであるにも関わらず小池の圧勝に終わった。


30代の頃に年齢制限と素行不良からプロ入りを阻まれた小池だが、それ以前にもチャンスはあり、22歳

の頃にプロを目指して松田茂役に弟子入りしていた。 小池の腕を見込んで知人が薦めたとされている。

しかし当時の小池は夜の遊びを覚え、キャバレーのホステスに入れ上げるなど素行が悪くなっていっ

た。 やがて勤務先の将棋道場の金を着服し、道場を解雇されると同時に松田にも破門され、プロ入りの

話は消滅した。


加賀敬治と互角の勝負をしたことで小池の真剣師としての名声は高まったが、そのため彼に賭け将棋

を挑む者が激減してしまった。 後年、縁を深めることになる団鬼六も「借金は真剣(賭け将棋)で返しま

す」と言う小池に「小池重明と真剣で指す相手なんて日本中何処を捜してもいない」と一喝したという。


大山康晴との対局の前夜、泥酔して暴行事件をおこし、留置所に監禁されてしまう。 知り合いの都議に

連絡をとって出所し、対局に間に合わせることができた。 将棋自体は角落ちながら、中盤から小池が圧

倒し、短時間で勝利した。 あまりの大差に周囲が顔色を失うほどであったという。

大山の終生のライバルであり既に引退していた升田幸三とも角落ちで対戦している。 この一番は当初

は小池の作戦勝ちだったものの、升田の玉が前線に躍り出る妙手が出た上に、升田が▲8五歩▽8五

同金と金歩交換する勝負手を繰り出し、小池が一方的に敗れた。 局後、升田は小池に、「わしはプロだ

よ。 あんたは所詮アマだ」と声をかけ、小池も負けじと「(引退して大分たっていたので)将棋が弱くなっ

ておられると思っていました」と言い返した。


昭和56年当時、「元祖」居飛車穴熊の新戦法を使って最高勝率を挙げていた田中寅彦五段(当時)と対

戦し、勝利している。田中は対小池戦でも勿論居飛車穴熊であった。


「無頼派」と呼ばれた事から豪放磊落な性格と思われがちだが、神経質な一面を持っていた。 ある対局

の際、将棋界の重鎮がすぐ横に座っている事に小池は萎縮してしまい、その様子に気がついた対戦相

手が観戦者に席を外すよう頼んだという逸話がある。


羽生善治が小学生の頃、偶然に小池の対局を目撃している。 羽生はプロ入り後、小池について「生き

様のように将棋自体は型破りそのもの。 しかし、とにかく強かったという事を鮮明に憶えている」と語っ

ている。


1982年当時、棋聖のタイトルを獲得する直前の森雞二と平手で対局し勝利した。 しかし同年、当時中

学1年生の村山聖には平手で負けている。


読売新聞が主催する将棋大会において、優勝賞金100万円という話を聞きつけた借金取りが、「こんな

大金が出る大会であれば優勝するのは小池以外にいない」と、会場の外に何人か待ち構えていた。

予想通り優勝を収めて100万円を手にした小池であったが、借金取りに全額持っていかれてしまい、

当人の手元には1円も残らなかったという。

団鬼六が「運転手として雇うからみんなから借りた金を返せ」と言ったところ、小池は「それは無理です」

と答えた。 実は借金取りから逃げ回るうちに、免許証の更新期限を過ぎてしまいとっくに失効していた

のだという。 その時小池は一文無しだったが、免許証は団が自腹を切る形で無事取得できたとのこと。

団と小池が一緒に旅行した際、地方の旅館に一泊した翌朝に小池が「これは先生の取り分です」と団に

現金を差し出した。 小池は団が眠っている間に同じ宿の博打好きの旅行者らに声をかけ、賭け将棋で

片っ端から負かしたのだと言う。 それを聞いた団が「まず手持ちの金があることを示さないと相手は博

打を受けないだろう。 お前、そんな金を持っていたのか」と言うと小池は「ありません」と答えた。 小池は

眠っている団の姿を対戦相手に見せ、「あの人が自分の雇い主で、自分が負けたらあの人が金を払う」

と説明していたのである。 事情を知った団は呆れて「負けたらどうするつもりだったんだ」と尋ねたが、

小池は笑いながら「素人に僕が負けるわけがないじゃないですか」と答え、「こんな田舎なら僕があの小

池だとは誰も知らないし、県代表が相手でも倍層なら軽い」と言ったという。


団はアマチュア六段で文壇でも指折りの実力者であるが、飛車落ちの手合いで小池とおよそ五十局真

剣で勝負し、全敗したという。将棋専門誌で団が語ったところによれば、対局中「よければ持ち駒を売り

ますよ」と小池に声を掛けられ、熱くなっていた団は言われるままに駒を買った。 それでも小池の巧みな

指し手に手も足も出なかったという。

小池が行った対局の棋譜は多数現存している。


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河北新報 12月9日(木)6時12分配信


もともと殻が右巻きだったカタツムリで左巻きに進化した種が存在するのは、

カタツムリを餌とするヘビが手助けしたとみられることが、東北大大学院生命科学研究科の

細将貴研究員(進化生物学)らのグループの研究で分かった。


カタツムリの体は殻の巻き方が異なると、交尾しにくい構造。


通常、突然変異の左巻きが子孫を残せる可能性は低いが、

天敵の被害に遭いにくいという利点が交尾の難点を補う形で進化につながったという。

カタツムリは数多くの種が存在するが、左巻きは少ない。


右巻きを保ったまま多様化してきたと考えられ、少数派の左巻きの進化は謎だった。

細研究員らは2007年、カタツムリを食べるセダカヘビの口の構造と捕食行動を調査。


セダカヘビは右側に多くの歯を持ち、左巻きよりも右巻きのカタツムリの方を効率よく殻から中身を引き出して

食べていることを突き止めた。

調査結果に基づき、左巻きのカタツムリはセダカヘビに襲われても生き残る可能性が高く、

進化が促されたと予測。


ほぼすべての種のカタツムリの分布と大きさを調べ、左巻きの属の割合を検証した。


セダカヘビが生息する東南アジアなどでは、殻が2センチを超える57属のうち約20%が左巻きだった。


一方、セダカヘビが生息しない北米などでは、殻が2センチ以上の141属のうち左巻きは約1%にとどまり、

仮説が裏付けられた。

日本周辺でも沖縄県の石垣島や西表島、台湾など、左巻きが多い地域とセダカヘビの生息域はほぼ一致。


系統を解析したところ、右巻きから何度も分化して進化していることも判明した。


細研究員は「天敵の存在が種を分化させるという、生き物の進化を考える上で興味深い結果となった。


セダカヘビがいなくても左巻きが確認された地域もある。


今後、セダカヘビが生息した時期と左巻きの分布も調べる必要がある」と話している。


研究成果は8日、英科学誌ネイチャー・コミュニケーションズの電子版で発表した。

読売新聞 12月5日(日)3時2分配信


大阪大大学院医学系研究科(大阪府吹田市)の不二門尚(ふじかどたかし)教授(感覚機能形成学)、

神田寛行助教らの研究グループは、網膜の異常で失明した「網膜色素変性症」の患者の網膜を、

微弱電流で刺激し、視力を回復させることに成功した。


6人中5人で効果が確認され、目の代わりとなる小型カメラでとらえた光の動きを追うことができた人もいた。


国内で「人工視覚」の成功例は初めて。不二門教授は「数年以内につえなしで歩けるようにしたい」としている。


目の構造をカメラに例えると、角膜、水晶体がレンズ、網膜がフィルムにあたる。


健康な人が見た映像は、電気信号に変換され、網膜、視神経を経て脳の視覚野に送られ、「見える」ようになる。


しかし、網膜色素変性症になった人は、網膜の視細胞が徐々に消失するため、

信号が視覚野へ届かなくなって光を失っていく。


不二門教授らは、患者の網膜の外側の強膜の中に、刺激電極のチップ(7ミリ・メートル四方)を装着。


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チップから微弱電流を流し、眼球内に埋め込んだ帰還電極にあて、

返ってきた電流で網膜内にわずかに残った神経細胞を刺激する方法を考えた。


2005年秋と08年春には、計4人にチップを装着。手術中のわずかな時間に光の刺激を与えたところ、

3人が光の方向を判別できた。


今年4~7月には、失明して10年以上になる女性2人に1か月間チップを装着し

CCDカメラをおでこにつけてもらった。


カメラで取り込んだ画像情報は、体外の装置で電気信号に変換され、

体内装置を経て、強膜内のチップに送られた。


千葉県の女性(67)はパソコンの黒い画面上に不規則に現れる白色の棒をカメラで見て、

位置を指さすことができた。女性は「闇の世界でしたが、白い光がはっきり見え、棒の位置を追えました。


光が見えるというのは素晴らしい」と話す。

読売新聞 11月8日(月)4時37分配信


たった一つの遺伝子を人間の皮膚細胞に送り込むだけで、血液細胞の前段階である細胞に変えることに、

カナダ・マクマスター大の研究チームが成功した。


現在は皮膚細胞などに3~4個の遺伝子を導入してiPS細胞(新型万能細胞)を作製し、

様々な細胞に変化させる研究が世界各国で進められているが、

今回の成果はiPS細胞を使わずに血液細胞を簡単に作る技術につながる可能性がある。

8日の英科学誌ネイチャー電子版に発表した。


研究チームは、iPS細胞を作る時に使う遺伝子のうち、「OCT4」という遺伝子のみを皮膚細胞に導入した。

その結果、血液細胞になる寸前の「血液前駆細胞」に変化した。


この細胞に変化を促す特殊なたんぱく質を加えて培養し、

白血球や赤血球などの血液細胞になることも確認した。