本日も読んでくださってありがとうございます。

いつも、毎年、新年の目標を立てていますが、達成したか
しないかは、別として、今年も何か目標を持っていますか?

この時期、まだ、薄らと、覚えていますよね
春には、頓挫する可能性もありますが・・・
いいじゃないですか?

私、慌てなくなりました
重大なことに気がつけたからです

そのことを説明しようと思いますが、かなり難しいです
でも、やってみますね。
わずかの文章の中で、限られた枠の中で、厳しいですが
お話します


私の過去記事の中で、こころが乾いたときに読むシリーズ
があります。

このなかで、究極の共通点があります。

それは、何かといいますと

心の底から、魂の底から、悟れたとき
一瞬にして、事態は、好転しているということです
何ら、自分が手を下していないのに


長女が生まれるときの、逆子状態。
ここでは詳細を全部話せませんが、本当に親に
申し訳ないと思ったんです。
そしたら、元に戻りました

先月の二男の交通事故も、親として喜んで、誠心誠意
対処しよう、すとんと腹を決めたのです。
そしたら、霧が晴れるように、すべてスムーズにいったんです。
怪我も引っ張らず、車も整備工場の社長がこころかけて
下さって、被害者も暴れずいい人でした。

脳腫瘍だった後輩が治っていったときの話もそうです。
同室のおじさんから
「本当の兄弟でもあんたみたいに心配できんな。
感心するな」といわれたんです。
気が付いたら、無我夢中でした

実は、そんなことを振り返っていると
過去の経験から、共通項が浮かび上がってきたのです

気が付いたとか、悟ったとか、っていうのは
要するに
1、自分(わたし)を完全に捨てたとき
2、でも現象面は触っていない


私は、日々生活する上で、ポイントとなるのは
現象面を整えることです
やれ、子供をよくしよう
商売が儲かるように、仕事がうまくいくように
などなど

ですけど、苦労せずとも、現象面を換えずとも
一瞬にして変わってしまうのです
これ、不思議です
整うんです

そうなってくると、どうも、現象を追っかけて、整備しようと
して、もっと言えば
相手を変えようとして
右往左往しますが、効率が悪い。
っていうか、変わらないんです


それよりも、自分のほうに意識を持ってくるんです。
常に。

回りは、放っておけばいいんです。究極。


昨日は休みでしたから、お見舞いに行ってきました。
知り合いですが。

そのときも、治って欲しいです。勿論。
でも、昨日はいつもと違う意識をもって接していました

病院の中では、西洋医学ですから、それに従っています
いつもなら、私は、東洋的に、こうして、ああしてと
具体的な方法を教えてあげます
それが、当たり前ですし、当然だと思っていましたし

でも、昨日は、常に意識を自分に持っていったのです

いわば、訓練といいますか
鼓舞することに集中するといいますか

普通は、相手を変えることに集中しますが
意識は、自分に持っていくのです
そのくせ、相手中心にするのです
ちょっと、矛盾しますが

相手を変えようとする、相手中心ではなく
どうしたら相手中心になれるか?
自分を捨てれるか?
を意識する、相手中心です

常に、考えて行動できるわけではないです。とっさのときも
当然、あります。

先日も、泥棒の話をしましたが、働くようになったら、親に
家に、お金を入れるのは当たり前だという話。
そうしないと、バランスがとれない、ってはなしですが。

事故の弁償分を、自動車整備工場に分割で支払って
いくわけですが、その話を二男にしたときに、
「全部俺が払うんか?」
と言ったわけです

ここで、善悪中心で、親を振りかざせば
「当たり前やろ、お前が事故起こしたんやから」
となるわけです

ところが、親の都合を捨てて、自分を捨てたときには
どうなるかというと

「○○、お前が働いてくれておるおかげで、随分救われとる。
ありがとう、助けてくれるか?
頼むな」
となったわけです

とっさです。瞬間です。


常に、意識を自分に持ってきて、現象面を触る必要が
ない、相手を変える必要がない
必要なことは全部整うんです
不思議ですけど


うまく、説明が出来ませんが
それが、私の今年の目標なんです

ある意味、きついです
窮屈です

でも、振りまわされないんです
穏やかなんです
落ち着いていられます