初めて行った海外がフィリピンでした

かれこれ25年ほど前くらいの話です。もうそんなになるんです

衝撃的だったのでよく覚えています

そこで、後に影響を及ぼす人と出会っているんですが

 


 

私はマニラから1時間くらいのバターン半島にホームスティを

したことがあります。女性市長さん宅でご主人は建設業を

営んでおり、メイドさんもおり、裕福なお宅でした

そこで、初体験のびっくりしたことをお話します

 


 

そんな、大きな家ではないのですが、家の入り口には

鉄の扉で開閉をし、車で乗り付けてクラクションを鳴らすと

門番がいつでも開けてくれます。しかし、何のために頑丈な

背丈以上もある鉄の扉が必要なのか疑問でした

日本でいう、○○組の親分さんのお屋敷といったところ。

 


 

着いたその晩に、親戚にご不幸があったので、お通夜に

一緒に行くか?と言われたので何でも勉強だと思い

行くことにしました。ところが、ご主人は、ピストルをカバンに

しまい、運転手の腰にはピストル、もう一人の助手は

ライフル銃を持参して出発するのです

 


 

大変なことになったぞ、組の抗争に巻き込まれたら死んじまう。コワーイ。日本に帰りたい。何なんだこれは?

と、いろいろ考えながら通夜会場に着き、抗争ではなく

普通の弔いでした。ほっと、一安心。

それにしても、この重装備は、信じがたい。

 


 

日中は、向こうの青年会との交流があって、それに参加

して、夕方、市長さん宅に戻ると、公園に行くか?と言わ

れたので分かりました。と連れてってもらいました。

 


 

正直、心折れそうになりました

「山下は知っているか?」近所の山下さんなら知っている

けど、日本人で有名な山下は誰だろう?と思いました

「山下将軍」でした。実は、バターンは大変なところなのです

 


 

太平洋戦争最中、1941年日本軍はフィリピン制圧の

ため、バターン半島から上陸し米比軍の死傷者は勿論

地元の民間人の犠牲者も多数出しました

 


 

制圧後、当初予定していた2万人より、思ったより多かっ

た捕虜7万人を収容所まで移動させたのですが、トラック

は破壊されていたので、ほとんどを徒歩で強行させたのです

60kmくらいはあったそうです

 


 

最後まで抵抗しての捕虜になった経緯もあり、心身衰弱

した兵が多数いたこと、食料不足が重なり、マラリアでばた

ばた倒れていきました。その名も、「デスマーチ」死の行進と。

現地では、日本軍が陥落した4月9日を勇者の日として

休日となっています。

 


 

話は戻って、夕方連れてってくれた公園は、日本軍が

侵攻したことを忘れまいとする記念公園で、壁画に日本

軍の様子が絵で書かれていたんです。

そして、総責任者「山下将軍」です。私は、全く知識が

なく、初めて聞く話ばかりで、心痛かったことを覚えています

 


 

25年前当時、現存していた現地のおじいちゃん、おばあ

ちゃんの身内の必ず誰かは、日本軍の犠牲になっている

という、いわば反日のアウエィだったのです

ただ、日本人の先輩方のおかげで、私がホームスティできる

までに、友好を作っていただいたのです

 


 

しかし、以前はどれだけの反日感情があったかを、日本人

墓地で知ることができました。日本人戦犯収容施設が

あった「モンテンルパ」です。終戦後、無実の戦犯も処刑さ

れた施設の墓地は、何十年も、自然石ひとつでした。

 


 

戦後何年も収容所に残された元日本兵を、心ある

活動家、歌手渡辺はま子さん、身内を日本兵に殺され

たフィリピン責任者のはからいで、無事帰還できました

 


 

戦争は、加害者にも被害者にも深い傷を残しました

 


 

以前、薬師丸ひろこさんが渡辺はま子さんを演じた、

再現ドラマがありました。すごいのは、薬師丸さん自身の

肉声歌です

そして、収容施設の元日本兵たちが書いた歌詩です

何度聞いても、心打たれます

 


 


 

「ああモンテンルパの夜は更けて」

 

 

 

http://tinyurl.com/n6nughd


 


 

忘れるところでした。後に影響を及ぼす人とは?

 

メンバー20人くらいでフィリピンに行ったのですけどその中に

家内がいました。

 

 


 

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