【人生記録】伊藤菜美とはどんな人? | 【躰*導き処 なみきみち】岐阜市整体(出張) ゆらぎ整体、ビオスチーム、ヒーリング

【躰*導き処 なみきみち】岐阜市整体(出張) ゆらぎ整体、ビオスチーム、ヒーリング

身体は治り方を知っている。あなたの身体が教えてくれる。私の手技は動体波動還流法ゆらぎを使って身体の声を聞きながら身体が必要としている手技でガチガチな筋肉をふわふわな筋肉にする施術です。天女ヒーラー、レイキヒーラー&ティーチャー(伝授者)、Jinヒーラーです。

1980年岐阜市に生まれる。

 

小さい頃から母の身体をほぐしていた為、身体に興味を持つ。

 

小学校4年生~卒業まではソフトボールをやる。

自分も揉んでもらうようになり、さらに施術に興味を持つ。

 

姉が喘息がひどく、私が小学校5~6年の時に入退院を11回しており、

学校から帰ってきたらすぐ病院へ行く、帰ってきたら寝る、という生活をしばらくする。

 

姉は肺に穴が開く気胸という病気になり、3回ほどチアノーゼが出て死にかける。

そんな中勉強が頭に入るはずもなく、勉強がついていけなくなる。

 

中学3年間はハンドボール部。

 

小学校高学年~中学校にかけて、言葉のいじめによりたまに不登校気味に。

高校も精神的に持たず、すぐ辞めてしまう。

 

人の目が怖くなり、3か月間家で引きこもりほぼ外へ行かなくなる。

 

これではダメだと思っていた矢先、

母が仕事でアメリカ人と知り合い、

「夏休みの間、遊びに来てもいいよ」と

言ってくれて、


15歳の夏、初海外、一人でアメリカへ行くことを決意。

もちろん、英語は「My name is Nami.」しか喋れなかった。

 

ユタ州で2週間(完全に英語のみ)、カリフォルニア州で2週間(ほぼ日本語)を過ごす。

カリフォルニアではディズニーランドでパレードの中1人迷子になる経験をする。

 

1か月滞在中に、アメリカ人の自己肯定感の高さを目の当たりにする。

人生観が変わる。

 

高校へ行けなかった分、パソコンを使えるようになろうとパソコン教室へ3年間通う。

 

郵便局でバイトを4年間する。

 

その間に貯めたお金で日本カイロプラクティック専門学院へ通う。

整体の師匠となる綿田先生と出会う。

2年間勉強、卒業後2年間附属のカイロプラクティック院で働く。

 

その間、ホリスティックセラピーを学ぶ為、

2回アメリカへ勉強しに行く。

・米国カイロ大学人体解剖学終了

・米国マッサージ師資格(C.M.T)取得

 

カイロプラクティック店で働いている時にワーキングホリデーの制度を知り、27歳仕事を辞めて28歳でオーストラリアのゴールドコーストへ。

 

・語学学校

・マッサージ店で働く(6か月)

・2ndワーホリの為3か月半ファームで働く

   →カンガルーが周りにいるような池の水で3か月半シャワーを浴びる生活となる。

・スキューバダイビングの資格をレスキューまで取得

・エアーズロックへ旅行

・フレーザー島へ旅行

・ケアンズへ旅

・グレートバリアリーフでダイビング(1回目)

・車も買う

・シェアハウス4か所経験(様々な理由で出ていってほしいという経験も2回あり)

など、やりたいことは全部した。

 

一度日本へ戻り、2ndワーホリの為のお金を貯める為、深夜のアルバイトを6か月。

昼夜逆転の生活の為、身体がしんどかった。

 

2ndワーホリでダイブマスター取得→スキューバダイビングインストラクターを取得。

1年間働く。

・オーストラリアの免許取得(マニュアル車ハイエースで送迎してた)

・シェアハウスも3か所経験(この時もすぐに出ていってほしい経験1回)

・タスマニア島へ1人旅

・グレートバリアリーフでダイビング(2回目)


など、イントラしながらも生活を楽しむ。

 

その時、パラオからインストラクターの募集があるが行ってみないか?

との問い合わせに即時手を挙げる。

親戚のおじさんがパラオで戦死(当時26歳)していた為、パラオへ行ってみたかった。

 

ダイビングショップで働く前に、心の勉強のセミナーでアメリカへ8日間行く。

 

働いていたダイビングショップは、フィリピンとパラオを行き来するクルーズ船だった為、フィリピンinで働き始める。

 

一緒に働いてたのはフィリピン人、パラオ人、日本人。

お客様は日本人の時もあれば、全員外国人の時もあり。

 

船の上で寝泊まり、ダイビング1日4~5本毎日潜る生活が始まる。

朝6時からダイビング~夜9時過ぎまで働いて月給5万円ちょっと。

体力的にも精神的にもかなりキツイ生活だった。

 

4か月フィリピンで過ごす。

この時にのちのヒーリングの師匠となる零脳者しゅうさんと出会う。

ダイビングのお客様でした。

 

その後パラオへ移動。

基本ドリフトダイビング。

 

ジャーマンチャネルというポイントでミルキーウェイみたいに何も見えない状態で1人遭難したこともある。

しかも下げ潮。

亡くなった人もいるという話も聞いていたが、落ち着いていた為フロート振りまくって助けを呼んで、なんとか他のショップの船が気づいてくれて救助してもらえた。もうその日のダイビングが終わる時間帯だったから、見つけてもらえてラッキーだった。

 

働いている時に食中毒?になり、本島から1時間離れたクルーズ船の上で夜8時に具合が悪くなった為、朝にならないと島へ向かうボートが出せないと言われ、朝まで胃にキリで穴を開けられているような激痛と頸を1cm動かすだけで体幹に激痛が走る痛みに耐えて翌日スピードボートが波でバンバン跳ねる中、痛みで絶叫しがらこれまた1時間耐え抜き、病院へ行ったら即入院。

 

「バイキンイッパイ in the blood,」←パラオ語(パラオ語には2000語くらい日本語がある)って説明しか分からず(他はパラオ語だった為)4日間入院となる。

初めての入院が海外で不安もいっぱい。

 

そんな状態で歩くのも必死なのに働けるわけもなく、日本で静養させてくれとボスにお願いしたのに、却下。

 

それを伝えた母が激怒し、なんとか日本へ戻ってきて静養。

 

日本に居る間に身体を調べておけと言われ、

調べたら子宮内膜症、子宮筋腫3つ、右卵巣嚢腫(チョコレート嚢胞)が見つかる。

ステージ3で癒着もある為、手術しないと子供を作るのが難しいと言われる。自然分娩したかったからかなりのショックだった。

 

のちに(約1年後くらい)腹腔鏡下、全身麻酔で手術をする。

麻酔って吸ったら本当に一瞬で寝れるのね。

起きた時には5時間半経ってた。

動かないように腕を縛られていた?為、

尺骨神経が圧迫を受けて、左の薬指と小指が1週間常にビリビリしていた。

 

癒着を剝がしてるので、内臓へのダメージが大きく、その後帝王切開を2回したが、帝王切開よりも1回目の手術の方が断然痛かった。

子宮の手術をした1か月後の痛みで、帝王切開した後の痛みくらい。

1回目の手術後、退院しても15m歩くのに30分かかっていたから、相当痛かったってこと。

 

話は戻るが、ダイビングショップを辞める決心をし、日本へ戻ろうと決めた後に子供たちのお父さん(パラオ人)と出会う。

 

そのため、ダイビングを辞めた後もパラオに住むことになる。

ビザがないため、行ったり来たり。。。

 

その後結婚し、1年後くらいに上の子が出来る。


上の子妊娠中にマンゴー🥭を木から獲ろうとして

マンゴーの樹液が顔にかかりアレルギーを発症。

現地の人たちは「ドクマンゴー(毒マンゴー)」と呼んでいたマンゴー。

後から分かったけど、マンゴーってウルシ科でかぶれるのね💦

その時は2週間くらい顔がお岩さんになり、お尻に注射を打たれる。

シャワー🚿が備え付けで動かないから、顔の汁が身体中に広がる😭お陰で全身痒くなる。

これを機に大好きだったマンゴーは一生食べられなくなった。


自然分娩したかったが、一度子宮にメスを入れているので、帝王切開でしか子供が産めず、日本で子供たちを産む。(パラオの医療レベルは不安だった為)

 

上の子が1歳過ぎてパラオへ戻ったが、下の子を妊娠した為5か月ほど滞在後、帰国。

 

そのまま日本で暮らす→現在に至る。

 

子供たちが幼稚園になった時に、

現在の【躰*導き処なみきみち】を始める。

 

が、コロナと同時だった為、営業は厳しい。。。

現在出張施術のみとなる。

 

やっと場所が確保出来て、もう少しで隠れ家サロンで施術できそう♪

 

私の人生の説明文、長々と最後まで読んでくださり、ありがとうございます!!😊


ここまで読んでくれたあなたはなみへー通(笑)