戦争の記憶 | しちふくのひとやすみ

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獣医師&獣医鍼灸師&レイキヒーラーである
しちふくの感じたいろんなこと

こちらの本を読んでいます。

《水木しげるのラバウル戦記》


中味は絵日記のような感じです。



ラバウルというのは
パプアニューギニアの地名です。

水木しげるさんはラバウルで従軍し
戦闘で左腕を失いました。

ラバウルでの過酷な日々を挿絵とともに
綴ったのがラバウル戦記です。

私の父も赤紙で召集され
ラバウルで従軍していました。

水木しげるさんと父は違う部隊ですが、
ラバウルという場所は同じです。

父は当時のことを
あまり詳しく語らなかったため
水木しげるさんの本を読んで
父の過ごした日々に思いを馳せています。

父から聞いた数少ない話は

父は出征前は国鉄(今のJR)に勤めていて
機械に詳しかったため通信兵だったこと。

同じ部隊の仲間たちは塹壕に隠れていて
敵の襲撃を待ち構えていたこと。

父たち通信兵は機械を守るために
塹壕から離れた藪のなかにいたこと。

その時 米軍機が一斉射撃しなから襲ってきて
塹壕にいた仲間たちが
全員亡くなってしまったこと。

父は辛うじて生き残ったけど
その後マラリアにかかって
生死の境を彷徨ったこと。

父が日本に復員できたのは
終戦から一年以上経ってからだったこと。

あまりにも痩せこけて帰ってきたため、
実の母親(私の祖母)でも
自分の息子だと分からなかったこと。

帰宅して数か月経って
少しふっくらしてきたら
やっと本当の息子だと信じてもらえたこと。

なとです。



戦地で仲間と話すことといえば、
故郷のこと、家族のことが
ほとんどだったそうです。

仲間の家族構成や性格など
ほとんど覚えしまうほど
詳しく話し合っていたそうです。

戦地からの復員兵が自宅に戻ると
自宅が無くなっていたり
家族の行方が分からなかったりすることも
珍しくなかったそうです。


そんな時、家族構成も性格も知っている
亡くなった兵士仲間の家に
本人のふりをして「帰宅」する兵士も
いたそうです。


そんな事情もあって、私の父も、
すぐには本人と信じてもらえなかったようです。


そんな父が、
よく怒っていることがありました。


私が小さい頃、お祭りなどに行くと、
屋台の建ち並ぶ隅っこに
白い兵服を着て、
手、足、頭なとに包帯を巻き、
ハーモニカを吹くなどして
物乞いをしている人たちがいました。

私の父は、物乞いをしている元兵士たちを
ウソつきだと怒っていました。

包帯をしているのは見せかけで、
本当はケガなどしていないというのです。

父に言われて注意深く見ていると、
ケガをしているはずの元兵士たちが
裏の方で普通に歩いて
タバコを吸っていたりしました。

父は本当に生死の境ギリギリのところを
生き抜いて復員してきたので
ウソをついて物乞いをしている人たちが
許せなかったのでしょう。


今 考えると父はラッキーだったのです。

ラバウルに行ったことは大変な事でした。

でも、青森市は空襲で
市街地の80%以上が焼けたのに
父の実家は残っていました。

しかも、父は復員前に勤めていたJRに
復職することができ、
仕事に困りませんでした。

お祭りで物乞いしていた元兵士たちは
復員しても家や家族がなくなっていたり、
すぐに仕事が見つからなかったり
したのかもしれません。


沢山の人たちが
それぞれの立場で大変な思いをした
時代だったのだと思います。


私たちは体験者たちの話を聞いたり
当時の資料に触れたりして
地球上から戦争が無くなるように
真に平和な世の中になるように
考えて行かなければなりません。


みんなが心から祈ると
実世界に変化をもたらすことも可能です。

いつまでも人間同士で争うような
低レベルのことをするのでなく、
真の平和が実現されるよう
祈りたいと思いますお願い


良かったら、皆さんも
真の平和が実現するよう祈ってくださいおじぎ