アイドル鳥越 ウエストランドに捧げる 津田梅子 のお話 | ねこ(甘えるテクニックのたくち)のブログ「甘えるダイアリー」

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シンガー たくち です
今回も そんなに似てるのかな〜
アイドル鳥越 ウエストランドに 捧げる
新五千円札 津田梅子 のお話

津田梅子は 女子教育家



1864年 元治元年 12月31日
江戸 牛込 生まれ
津田仙 初子の次女 姉 琴子が長女
むめ と書いて うめ と命名される
仙は 外国奉行支配通弁 通訳官
梅子 3歳のころ
幕府の使節の随員として渡米などをした
明治になり 官職を 辞する
1871年 仙が 開拓使 委嘱となり
三田に移る
10月 開拓使による 女子留学生の
アメリカ派遣事業に 
仙は 梅子を応募させる
最初は 琴子を応募させるつもりだったが
琴子は 拒否
梅子は 自分の意志でアメリカに
行きたい と答えたらしい
上田悌子 吉益亮子 山川捨松 永井繁子と
5人が 女子留学生となり
梅子が 最年少だったんですよね
ここは 歴史の教科書に載ってたので
記憶にあります



1871年 明治4年 11月 
岩倉使節団に随行し渡米
12月23日 横浜出港 
1872年1月15日 サンフランシスコ入港
31日 5両の貸切列車で
ワシントンに向かったが 
大雪で 18日間待機 
2月25日 シカゴ 到着 
翌日夜 ワシントンに向け出発
1872年2月29日 ワシントン 到着
ジョージタウンの 画家 旅行家
チャールズ ランマン夫妻に預けられる
5月1日 留学生5人は 
ワシントン市内に集められ
同じ家に住まわされ 
生活に必要最低限の
英語の勉強をさせられる
10月末 悌子は体調不良
亮子は目を悪くして帰国
3人は 再び 別々のアメリカの家庭に
預けられることになり
梅子は 再び ランマン家に預けられ
10年間 過ごす
英語 ピアノなどを学び
コレジエト インスティチュートへ通う
渡米9ヶ月で アメリカ渡航の
詳細を述べた A little girl's stories
という 英文絵日記 を書けるだけの
英語能力を身につける
1878年 コレジエト 卒業
私立女学校 アーチャーに進学
1881年 繁子は 
西洋音楽 ピアノの専門知識 技能を
習得し 帰国
在学中 仙の知人の
ウィリアム コグスウェル ホイットニーの
紹介で 1882年に フィラデルフィアの
資産家 メアリ モリス夫人 と知り合う
良き理解者となる
3月2日 繁子 文部省直轄の
音楽取調掛の教師に採用
日本初 ピアニスト
6月 梅子 学校 卒業 11月21日 帰国
日本語を 完全に忘れていた
ただ 開拓使は 2月に廃止され
留学生の管理は 文部省に引き継がれたが
官職が用意されることはなかった
12月 繁子 アメリカで出会った
海軍大尉 瓜生外吉と恋愛結婚
捨松は 帰国前に 日本に女子のための
学校を設立する希望を持ち
女子に英語を教える私塾設立計画を
立てたが 実現できず
1883年 政府高官 大山巌と結婚
この年 梅子に縁談の話があったが
梅子は 結局 断っている
6月から 6週間 繁子の口利きで
海岸女学校 夏季休業中の英語教師になる
11月3日 井上馨邸での
天長節祝賀パーティーで
使節団の 伊藤博文と再会
26日 伊藤夫妻と 華族子女対象の
私塾 桃夭女塾主宰の 下田歌子 訪問
梅子が歌子に英語を教える
歌子が梅子に日本語を教える
梅子が 伊藤夫人と娘に
英語 西洋式マナーを教える
など 取り決められる
12月8日 伊藤邸 最初のレッスンで
客分として 住込み家庭教師を提案され
父と相談の上で承諾し
20日 伊藤邸に引越し 客分になる
1884年3月1日 
桃夭に英語教師として出講
6月末 母が病気になり 
家庭教師生活を終え 自宅に戻る
1885年 伊藤の推薦で 
学習院女学部から独立し設立した
華族女学校で 英語教師になる
1886年2月 職制変更で嘱託
11月 教授となる 
1888年に来日した留学時代の友人
アリス ベーコンに薦められ 
1889年7月 再渡米
ブリンマー大学で 生物学専攻
2年予定を 1年延長
1891〜2年の冬 蛙の発生に関する
顕著な研究成果を挙げる
この成果は 指導教官の
トーマス ハント モーガン博士により
博士 梅子を共同執筆者とする
論文 蛙の卵の定位 にまとめられ
1894年 イギリス 学術雑誌に掲載
1892年6月 ブリンマーで
2年半の修学を終え
生物学研究継続を提案されたが辞退し
8月に帰国し 女学校 奉職
教職を続けながら 自宅に寄宿させるなど
女学生への積極的援助
1894年は 明治女学院講師 兼任
1898年5月 女子高等師範学校 教授 兼任
6月 アメリカ コロラド デンバー
万国婦人連合大会に 
日本夫人代表で参加のため 私費で渡米
日本の女子教育について演説
その後 英国各地 パリ訪問
英国では ナイチンゲールと面会
1899年7月 帰国
暮れに 高等官5等に 昇格
女子大学 創設運動や
高等女学校令 私立学校令の法整備で
女子教員への機運が高まり
自らの学校を開く活動開始
1900年春 モリス夫人や
ブリンマーの学長などの
アメリカの人々が 
フィラデルフィア委員会を組織し
梅子の学校を支える寄付金を集め
日本に送り続ける
アリス 捨松 繁子 新渡戸稲造 などの
協力者の助力を得て 
7月 華族女学校教授 兼 
女子高等師範学校教授の官職を辞し
私立学校令に基づく 女子英学塾の
設立願を 東京府知事に提出し認可
9月14日 女子英学塾を
東京市麹町区一番町の借家に開校
華族平民の別なき女子教育を志向し
一般女子の教育開始 開校時の学生は10人
良妻賢母主義的な女子教育とは違い
進歩的で自由なレベルの高い
授業が 評判となる
1908年には 学生150人に達する
ただ その一方 教育の厳しさも評判で
開校当初 脱落者が相次ぐ
無報酬で奉仕し 授業料収入のみでは
学生 教師 増加に伴う 塾拡張も見込めず
経営は 常に厳しく 
資金面で 大きな助力となったのは
主に アメリカの支援者達からの寄付金
1901年4月 移転し 
1902年 アメリカの教育者
アナ ハーツホン が来日し 塾で務める
1903年2月 新築落成した
東京市麹町区五番町の 
恒久的な校舎に移る
3月に 専門学校令 公布
1904年3月 専門学校として認可
9月 社団法人女子英学塾の設立許可で
社団法人に 移行
1905年9月 無試験検定による
英語教員免許状の授与権を与えられる
10月 梅子が会長になり
日本基督教女子青年会 設立
1915年8月 軽井沢 夏期学校で
日本の婦人運動 と題して講演
1917年 春ごろ 体調を崩し入院
2ヶ月後に退院したが 入退院を繰り返す
3度の入院で これ以上 
塾長を務めるのが難しいと自覚し
1919年1月頭に 塾の社員会に
辞意を示した手紙を送る 
塾長としての 実質的な活動を終える
10月ごろ 親戚一同の計画で建てられた
北品川御殿山の住居が完成
4度入院したあと 退院後 移り住み
10年間 過ごす
塾は 広い校地を得られる 郊外へ移転
梅子の念願の 真の女子大学設立を目指し
1922年 東京 北多摩郡小平村に 
25000坪の校地取得 
拡張 女子大設立を目指す
募金活動開始したが
1923年 関東大震災で大火災になり
五番町校舎 全焼
アナは帰国し 梅子の妹で
卒業生で サンフランシスコ在住の
安孫子余奈子の協力を得て
目標50万ドルの募金活動 展開
無事達成し 寄付金を得て
塾 復興 小平キャンパス建設を果たす
1928年11月12日 昭和天皇即位大典で
勲五等に叙され 瑞宝章
1929年1月 弟 純の四男 
甥の眞を養嗣子として迎える
7月 鎌倉の別荘に移り住む
8月16日 脳出血で死去 64歳
1931年 小平キャンパス 落成
塾は この小平に移転
1933年 梅子を記念して 
津田英学塾に改名
太平洋戦争の戦禍を乗り越え
戦後の学制改革を経て 
津田塾大学 となり 
梅子の女子教育への思いを継承
さらに 来年上半期執行予定の新紙幣で
五千円紙幣に 梅子の肖像が
使用されることが 決定

いかにも 戦時中 
留学生 塾講師と活躍されていた
津田梅子
私も 日本史で 彼女の名前を知りましたが
日本だけでなく アメリカでも 活躍
来年から 新五千円札の顔になるのですが
正直 かつての五千円札の顔
新渡戸稲造と交友があったのは 驚きでした
こういう縁が 
円になる ユエン なんですかね

とはいえ 最近は 
井口くん 鳥越ちゃん という
梅子の顔した 芸人も活躍してますが
お二人も 梅子以上に頑張って欲しいですね
新五千円札の 津田梅子を
是非とも よろしくお願いします